こんなよい月を一人で見て寝る(尾崎放哉)

1/6
10人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ

こんなよい月を一人で見て寝る(尾崎放哉)

こんなよい月を一人で見て寝る(尾崎放哉) ぽかっと、人を食ったような丸い月が浮かんでいる。 男は窓辺に腰かけて、しばしその月に見惚れた。 今のこの追い詰められた状況とは、かなりかけ離れた、とんでもなく平和な風景だ。 だが、 「ねぇちょっと、聞いてるの?」 電話から響いてくるのは、彼女のキンキン声。 「あ、ああ、すまない。聞いてるよ」 現実に引き戻されて、男はおどおどと答える。 「ちゃんと聞いてるさ」 彼女は呆れたと、 「ねぇ、これであなたが無断で外泊するのは何度目かしら。あたしはイヤだって何度も言ってるのに。あなたの脳みそには記憶力って文字がないのかしらねぇ」 「だから、さっきから謝っているじゃないか」 責める彼女を、男はなんとか宥めようとする。 「……勘弁してくれよ、仕事なんだから」 「しごと、シゴト、仕事って」 だが彼女の声はますますヒートアップした。 「毎回そうおっしゃいますけどね。本当に仕事かどうか怪しいものだわ」 「嘘なんかついてないよ」 「それが信じられないって言うの。だいたいあなたは、昔っから嘘つきだったじゃない」 「昔って、いつの話だよ」 とんだ濡れ衣だと、男は言い返す。 すると彼女は、 「あら、しらばっくれるおつもり? 駄菓子屋からかすめ取ったチューチューアイスをいつも美味しそうに食べてたのは誰? ポチを泡を吹くまで怒らせてたのは? でも、いっつもあたしのせいにしてくれたわよね」 勝ち誇ったように鼻の穴を膨らませている彼女の顔が、目に浮かぶようだ。 「それ、本当にいつの話だよ」 男はうんざりして、額に手を当てた。 彼女は、まっこと都合のいい時に、スルリと記憶の底から昔話を引っ張り出してくる。 今のだって、男がすっかり忘れさっていた、子ども時代の話だ。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!