2.その落し物は、落としたのか落とされたのか

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2.その落し物は、落としたのか落とされたのか

 ――あのとき、ハンカチが彼女と出会わせてくれた。  出会っただけだ。それ以上のことは、できない。  その日は太陽が沈んだころから酷い夕立が辺りを襲った。  下田ウキエは娘をピアノのレッスンに送った帰りに夕立に見舞われ、傘を避ける水滴に腕を濡らしつつ自宅アパートに急いで帰った。  雨の日は自然と視線が地面へと向くものである。アパートの目の前の道路を歩いていたとき、ウキエは側溝のコンクリート蓋の上にカラフルな布があるのを見つけた。それは女子小学生が使うような可愛らしいハンカチだった。基調はピンクと白で四隅に小さなリボンの装飾が付いてるが、今はぐっしょりと濡れていて本来の愛らしさが損なわれていた。  下校中の子供が落としたか、それとも――と思ったウキエは傘を傾けて上を見上げた。  濁った瞳と目が合った。  見上げた二階のベランダは、丁度ウキエたちの部屋の真上に当たるところだった。そこから一人の若い女性が、大粒の雨に打たれているにもかかわらず頭を出してウキエをまっすぐに見つめていた。  ウキエはどちらかというと平均よりも瘦せ型の体系だが、女性はウキエよりもさらに細く鋭い顔つきであることが目についた。間違いなく健康的な人間のそれではない。指で突けばたちまちにも崩れてしまいそうだ。長髪を垂らしながらウキエを見据える目だけが静かに怪しく輝いていた。 「これ、落としましたか?」  ハンカチの端をつまんで示したウキエは女性に尋ねた。  女性は目に見えて戸惑った。人と話すことに慣れていない拙さと、人そのものを恐れているような臆病さが滲み出ているようだった。瞳が目の中を何度も泳いで往復している。 「えっと、その……はい。私のです……」  雨の音に塗り潰されてしまいそうな声で女性は答えた。 「じゃあそちらに届けに行きますので、ちょっと待っていてくださいね」 「ありが……いえ、その、困ります」 「え?」 「その、ポストに入れてくれれば……大丈夫なので」 「はあ……」  ウキエは不可解に思った。ただ玄関口で渡してしまえば済む話なのに、そこまで他人に会いたくないのだろうか。  そう、会ったことがないのだ。真上の部屋には年配の女性が住んでいることは知っていたが、今ベランダから顔を出している若い女はこれまでに会ったことも見たこともない。ウキエの一家がこのアパートに引っ越して二年程の月日が過ぎているが、影すら見たことがないというのはいささか不自然に思えた。  女性は消えるように首を引っ込めてしまったため、ウキエは仕方なく水が滴るハンカチを持って女性の部屋に向かった。  一応インターホンを鳴らしてみたものの、やはり女性は出てこないどころか物音一つ聞こえない。年配の女性は出かけているのだろうか。中には確かにベランダの彼女がいるはずだが、完全に居留守を決意しているようだ。  ウキエは折り畳んだハンカチをドアポストに押し込んだ。あまりにも雑な渡し方で気が進まなかったが、受け取り手が対応しないのであれば仕方がなかった。  少し変わった隣人もいるようだと、ウキエは首をかしげながら女性の部屋から去っていった。  すると、背後で聞こえる小さな金属音。  ドアが施錠される音だと思い振り返る。  黒と、白。  ウキエが見たのは、暗闇と目玉だった。  そこはついさっきまで立っていたベランダの女性の部屋。そこの扉は音もなくわずかに開かれ、光が差し込まない内側には人間のギラギラした瞳がまっすぐにウキエを睨んでいた。  危機感。脳を介しない反射で立ち止るウキエの足。視線がぶつかっても、暗闇からの視線は動じることもなくウキエを射抜き続けている。  気付けば自宅の玄関にいた。息を切らせて、鉄のドアにもたれかかる。幸いなことにバッグはしっかりと腕に抱きかかえられていた。  足の裏が痛い。階段を何段飛ばしで駆け下りたのだろう。もしかしたら飛び降りたのかもしれない。  あの瞳はウキエが階下の住人だと気付いただろうか。そもそもあの目はベランダの女性のものなのだろうか。もしかしたら、あの目の持ち主はただ呼び出しに応じただけなのかもしれない。  渦巻く疑問。波風が立たない着地地点も見えている。  それでも、逃げ出したことは間違いではなかったと思う。直感の判断に確信も持ちつつ、ウキエはまだ蛇が巻き付いているような感覚を足元に覚えていた。  ウキエはその日の夜、夫のタツミに真上の住人について尋ねてみた。タツミも同じくベランダの女性については初耳であったようだ。 「ちょっと年老いた女の人がいただろ? その人の娘さんじゃないかな」 「でも私もあなたも一度も見たことがないのは、ちょっと不自然じゃない?」 「うーん……今だけ親の元に帰ってきているとか。もうそろそろ盆の季節だし」 「そうかなあ……それに前も話したけど、時々上の方でドスンドスンて物音が聞こえるし……何か変だよ、上の人たち」  タツミは低く唸ったが、あまり真剣に考えている様子ではなかった。 「もう少し様子を見て、本当に危なさそうだったらアパートの管理人に知らせよう。ユキは僕もしっかり見ておくからさ」  すでに就寝した娘の部屋に視線を向けた。ウキエも第一に心配しているのは我が子のことだが、それとは別に、何か掴みどころのない嫌な感じが彼女の心中を渦巻いていた。  薄い天井一枚を挟んだ、見えない向こう側の部屋。そこにいるのはどのような人間か……果たして人間なのだろうか?  ウキエは正体不明の暗闇を見つめる不気味さが、言い様のない不安を煽っているのだと気付いた。
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