3.本来はたった四文字で済む返事

1/1
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

3.本来はたった四文字で済む返事

 ――窓越しに目が合った。  どのように声をかければよかったのだろう。それがわからなかったことが、最期の後悔だった。  二階の小さな部屋にベッドと文机を置いたところが向井コノエが人生で初めて手に入れた一人部屋だった。  今年の春に小学一年生になる彼女は、それまで一つ下の妹と共有していた部屋から解放され、とてもすがすがしい気分であった。誰にも見られていない、基本的に踏み入られることのないスペースを手に入れることがこんなにも得難く感じられるとは大きな発見だ。妹のやかましく感じる声もなくなってみると寂しさを覚えるが、同じ屋根の下なので気軽に遊びに行けば解決である。床に座らなければいけない文机であることが唯一の不満点であるが、それも学校の机と違った新鮮さがあるというものだ。つまり、コノエは非常に上機嫌に一年生の春を過ごしていた。  そして今は待望の夏休みの機関である。今日、コノエは友達と市民プールで遊んだ疲れに耐えながら、学校の課題である絵日記に取り組んでいた。もちろん内容は友達と遊びに行ったことである。  心に思ったことを書き連ねていく作業はすぐに終わった。「たのしかった」という言葉だけでは言い表せないような、しかしそれだけで十分なような一日を綴り終えたとき、窓の外から「ぽつ……ぽつ……」と木の棒でアスファルトを叩くような音が聞こえた。  雨だ。  コノエが気付いたときにはすでに雨はどんどん激しくなり、大きなシャワーを使っているかのように激しい雨足となった。  遠くの方で雷が轟いていたので、コノエは部屋の唯一の窓へ駆け寄り、背伸びして外を覗いた。  空は灰色の絨毯が広がり、夕立は地面をえぐるように降り注いでいる。普段は少し先のの学校まで見える眺めだが、今は霞がかかっていると思えるほど近くのものしか見えなかった。  見える光と届く音の差で雷の遠近感がわかる、と父親に聞いたことがあったので、コノエは次に光るときを今か今かと待っていた。  ふと、雨空から視線を落としたコノエは、こんな天気なのに外に出ている人を見つけた。  コノエの家は住宅街にあり、狭い道路を挟んで向かい側にはちょっと小奇麗な二階建てアパートがある。コノエの部屋の正面にはちょうど二階のベランダがあり、そこに一人の女性が立っていたのだ。  どうやら女性はそれまで干していた洗濯物を取り込んでいるところらしく、かかっていた洗濯物を慌てて竿から取っ手は抱え込む姿が見えた。  初めて見る女性だった。学校の担任の先生よりも、母よりも若く見える。白い無地のシャツとガウチョパンツは小奇麗なのだが、骨と皮しかないような首と腕が目立つので入院している患者と見間違えてしまいそうだ。髪も無造作に長くのばされており、もしかしたら本当に病院から出てきたのかもしれないとコノエは思った。  じっと見つめるコノエの視線に気付いたのか、女性は窓の向こう側のコノエをまっすぐに見つめ返した。   そのくすんだ瞳に捉えられたコノエは少しびっくりしてしまったが、距離があったので逃げ出すまでとはいかなかった。むしろ、その瞳には敵意を一切感じなかったので多少の安心感さえ持ったほどだ。  女性は新しく出会った生き物を観察しているようにコノエを見続け、濡れているのを一切気にしていない様子だった。それがコノエにはとても心配なことで、窓を開けて部屋に入るように言おうかと迷った。  そうしている間にも雨は女性の手元にある洗濯物を濡らし続け、もう洗濯機から出したときと同じくらいに湿っていた。それでも、女性は気に留めることはない。  たまらずコノエは部屋の窓を開けた。  雨粒が頬に当たり、たちまち窓の縁が夕立に晒される。  コノエは出来る限り早口で言った。 「おせんたく、ぬれちゃうよ」  女性はとても驚いたようだった。コノエはただ注意しただけなのに、何をそんなに驚いているのだろうと不思議に思ったが、女性は何も言わずにあたふたとして部屋に戻っていった。女性が隙間がないよう念入りにカーテンを閉めたのを見届けて、コノエも首を引っ込めて窓を閉めた。  不思議な人物だったが、ひとまず気になったことは言えたので一安心だ。それにしても、あの二階の部屋に住んでいるのは母親よりも年上の女性だけだと思っていたが、その子供かもしれない女の人もいるとは知らなかった。  ぱりん。がしゃん。  部屋の衣装ケースからタオルを出して顔を拭いていたコノエは、家の外でガラスが割られる大きな音を耳にした。  雨足がさらに強くなる。雷が鳴り、女性の悲鳴のような車のブレーキ音がすぐそこで甲高く響いた。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!