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1.半径十メートル圏内の知らない世界
――隣に人がいるなんて知らなかった。
どうして、今まで声をかけなかったのだろう。
佐川スミオがその女性と初めて顔を合わせたのは、とある初夏、そして夕立がざあざあと降り注ぐ午後のことだった。
大学が夏季休暇に入っていたスミオは、アパートのベランダに午前から干していた洗濯物を慌てて取り込んでいた。数刻前から彼の住んでいる二階の部屋まで土の香りが漂ってきたときはもしやと思ったが、机を叩くような音から急に加速していく雨足を耳にして、急いでベランダに飛び出たのだ。
ハンガーにかかったままのシャツやらタオルやらを集めて胸いっぱいに抱えていると、隣で雨戸を開く乾いた音がした。
スミオのアパートは隣室のベランダとは避難経路の関係で地続きになっており、腰の高さほどの壁で仕切られている。
左隣の仕切りの向こう。そこには一人の若い女性が立っていた。アイボリーのワンピースと一体になっていると見間違うような白く細長い手、同じく細い顔は青白くすら見えてしまう。半開きの目とぽかんと開いた口で、どこか虚ろな印象を受ける。
彼女もスミオと同じく洗濯物を取り込んでいるようで、その腕には今まで干していたであろうシャツが何枚も重なっていく。
ここでスミオの存在にも気付いたようで、女性は彼から慌てて目線をそらしていそいそと部屋へ戻っていった。
スミオは少なからず驚いて、腕から足元に零れ落ちたシャツにも気が回らなかった。たしかに儚げな美人ではあったが、そこに気を取られていたわけではない。
ただ、女性の存在自体に面食らっただけだ。彼は隣の部屋に年配の女性が住んでいることは知っていた。ゴミ出しの日の朝にばったり会ったり廊下ですれ違ったりする程度だが、隣人に若い女性もいるのは初めて知ったことだ。このアパートに住んで一年ほど経つが、スミオは彼女の姿はおろか気配すら感じられなかったのは不思議であった。
病人と見間違えるような風体と快活ではなさそうな雰囲気だから、あまり外に出ない人なのかもしれない。もしくは帰省した娘か。十中八九そういったところだろう。
普段から隣人のことなどあまり気にしたことのないスミオは、それ以上女性について深く考えることはなかった。
そして、彼は二度と女性と会うこともなかった。
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