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飛び降り自殺
今井玲子は死にたかった。
どこのどんなものを見ても、希望を見いだせなくて、実はそれは昔からだったのだが、ついに彼女は死ぬことに希望を見いだしたのだった。
……苦しいくらいに緋くてきれいな夕焼けを見つめながら、彼女は呟く。
「——この世界は、なんと虚ろで退屈なのかしら」
誰も居ない場所で、彼女は嘲るような微笑を、その端正な口元に浮かべた。
「……そして、死後の世界は、なんとも魅力と神秘に溢れていることだわ」
誰も居ない屋上で、彼女は死への希望に満ちた哀しい笑顔を浮かべた。
おそらくそれが、彼女の、今に終わろうとしている人生のなかで、一番の笑顔になるだろう。
今井玲子は高校二年生である。
得意教科は国語。苦手教科はなく、成績はかなり優秀だ。
運動もできる方だし、目鼻立ちは美しく、礼儀も知っている。
いわゆるできる方の人間だ。
そんな彼女だが、一年生のとき、文芸部に入部し、一ヶ月もしないうちにやめてしまったことがあった。
飽きっぽいのではない。彼女はいつも、外から来る災いに苦しめられていた。
言ってしまえば、不幸を呼び寄せる体質なのである。
数々の不幸によって希望を失い、人間不信に陥り、差し伸べられた手も信用できずに、暗い日々をさまよい続けていた。
そんな日々を捨てる覚悟が、彼女には容易にできてしまったのだった。
——しかし、彼女にとって、またしても不幸なことが起きた。
今から死のうというときに、人が来たのである。
屋上の扉が軋む音と一緒に入って来たのは、金髪で見た目チャラそうな一人の男子生徒だった。
男子生徒は、玲子を見つけるなり楽しそうな笑みを浮かべ、近づいてくる。
玲子は億さずただそれを見ていた。
「……ねえ、先輩? 死のうとしてるでしょ。やめといた方がいいっすよ」
玲子の傍まで寄ると、男子生徒は軽い調子でそんなことを言う。どうやら後輩らしい。
——見つかったら十中八九そう言われるだろうと思っていた。みんなキレイごとを言うのが大好きだから。
邪魔されたくなかったから、屋上に人が来ない放課後にしたのに。というか、下校時間はとっくに過ぎているはずなのに、何故いるのだろうか。制服を着ているから、部活ではなさそうだけど……。
そんな考えを巡らせながら、玲子は何も言わずに相手の様子を伺う。
「飛び降り自殺とか、誰でも考えそうなことですけど、実際にやってみると落ちてる途中で後悔して、やめたくなるんすよ」
「……」
玲子は男子生徒の態度が予想していたものと違うことに戸惑った。
まるでそうなったことが実際にあるかのような言い方に。
「……あ、失礼。名前言ってなかったわ。俺、夢咲歩武。高一で帰宅部。よろしく」
「……」
何の前触れもなく自己紹介を始め、眩しいとすら感じる笑顔を玲子に向ける。
最初はふざけ半分だと思っていたが、そういうのとは少し違いそうな彼、夢咲の様子に、どう対応していいか、玲子にはわからない。
しかし、彼女にとって一つ確かなことがある。それは、夢咲の「よろしく」には応えられないということだ。
「で、先輩の名前は?」
玲子の戸惑いを察したのか、夢咲はそう聞いた。
「……今井、玲子」
さすがにここで何も言わないのは失礼だろう。玲子はあくまで警戒を解かずに、おずおずと自分の名前を呟いた。
「——ああ、なんか、そういう感じっすね」
玲子の顔を見ながら言う。名前が似合っていると言いたいのだろうか。
「んじゃあ、今井先輩。とりあえず今日は死ぬのやめときましょう」
「……」
玲子はまたしても軽い調子のその言葉に嫌悪感を覚え、僅かに眉間にしわを寄せた。
当然だ。そんな風に言われてやめてしまうほどの軽い気持ちで自殺を決めたわけではない。
それに、彼に彼女の気持ちはわからない。
自殺をしないということは生きなければいけないということだ。それが、彼女にとってどれだけ苦しいことなのか、彼は知らないのである。
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