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「……あっ、やべっ」
嫌な声が耳元に聞こえたと思った刹那、彼は足を滑らせ、体勢を崩し、なんの抵抗もできず、地に落ちた。
幸い(玲子にとってはそうでもないが)、足を滑らせたのは二階程度の高さからで、さらに落下地点が木の上だった。
「……あー、危ねぇ。まじ神様俺に微笑んでるわー」
こんなことになってもまだ慌てる様子を見せない彼と、今日は自殺は無理そうだということの二つに、玲子はため息をついた。
——翌日。
今日こそは死のうと、決意を固め、玲子は学校にきた。
さすがにあの夢咲とかいう後輩も、止めには来られないだろう。
……だって、昨日の転落で、かなりの怪我をしたはずだから。
あのあと、夢咲はどうにか玲子と一緒に木から降りて、そのまま動けなくなった。
夢咲の様子に、さすがの玲子も心配したのだが、意識もあり、喋ることもでき、さらにはこんなことを言ったので。
「俺、もうちょっと休んだら動けるんで、心配せずに先帰ってください」
……じゃあ、まあ帰るかと、玲子は思ったのだった。
人生を捨てた人間は、こういうときにこういう判断をするのである。
……しかし、玲子のアテは外れた。
放課後。
玲子は誰にも見つからず、迷惑をかけないように死にたかった。だから、今日も昨日と同じ時間の同じ場所へ、行こうとしたのだが……。
「よーっす、せんぱーい!」
屋上への道半ば。人気のない廊下で、昨日の声が聞こえた。
後ろから聞こえた無駄に元気なその声は、怪我を感じさせなかった。
「……」
——振り返って見る。
駆け寄ってくる彼の姿に、玲子は身の危険さえ感じた。
……執念だった。
夢咲は、顔を絆創膏と包帯だらけにして、三角巾で腕を吊りながら、病衣で現れたのだ。
「な、なんでっ……」
思わずそう呟くと、夢咲は昨日と同じ笑顔で、
「病院、抜け出して来ちゃいました」
と言う。
「……どうしてそこまでして学校にくるの」
半ば戦慄して、玲子は尋ねた。
しかし、次の一言で、彼女の戦慄は怒りに変わる。
「え、だって、先輩の自殺止めなきゃ……」
「——どうして自殺を止めたいのか聞いてるの」
夢咲の言葉を遮って玲子は言った。
普段温厚な玲子だが、今や死ぬことだけが唯一の希望である。当然、その希望を遮る者を、彼女は許せない。
「……それは、言ったら先輩、怒ると思うんで……」
口ごもる彼に、
「もう十分怒ってるから」
決して荒らげず、しかし鋭い声で、玲子は言った。
「……」
「いいから言って」
「——先輩のことが、好きだからですけど」
「……は?」
夢咲の告白に、案の定、玲子はさらに怒った。
——また私は、恋だ愛だに邪魔される。
「あなたが私を好きなのは、あなたの都合でしょ。私はあなたが好きじゃないし、死にたいの。邪魔しないで」
怒ったときと、嘘をついたときにだけ、玲子はよく喋る。
夢咲はさすがに飄々としていられなくなったらしいが、それでも挫けた様子を見せない。
「別に、先輩が俺を好きじゃなくてもいいです。俺の都合だからね。でも、先輩が死にたいのもそっちの都合です。……そうでしょ」
「……なにが言いたいの」
「先輩の自殺を止めるのも、俺の勝手ってことです。つまり、先輩は俺の邪魔を振り切れば自殺できるわけです」
——そういうことなら都合がいい。と玲子は思った。
「…………わかった。それでいいから、今日はもう帰りましょう」
内心笑みをこぼしながら、玲子は玄関へ歩き出す。
なにも、自殺の方法は飛び降りだけではない。死のうと思えば自分の部屋でも死ねる。
彼の邪魔など、ないも同然だ。
玲子は、高を括っていた。
しかし、この世界は玲子に味方しない。
——念の為、もう一度言おう。
今井玲子は、不幸体質である。
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