十年後の春

1/1
前へ
/4ページ
次へ

十年後の春

私は自宅のテラスから、まだ眠る街と遠くの山々を眺めていた。 美しいものを見ると、先生の句が恋しくなる。 「無理やりにでも作っておけばよかったな、先生の句集」 「先生? どの先生のことかな」 「一笑の句」 「ああ」 今は夫の彼が、隣でコーヒーを飲みながら「今更どうして」と、あけぼのの儚儚(ぼうぼう)とした空気を()んだ。 「今更だからこそよ。……思い出せないの。先生と過ごした時間がフラッシュバックすることはある。だけど、優しさと温かさを感じるばかりで、内容を思い出せないの」 「まさに一笑の句だな。良かったじゃないか、目指したものを実現できて」 「そんなの、先生の自己満足でしかないでしょう。……私は寂しい」 彼は私の肩にブランケットをかけ、抱き寄せた。 私たちを、柔軟剤のフローラルな香りが包み込む。 「そういうの、好きじゃない」 「慰められるのが嫌い?」 「いいえ。ただ、好きじゃないの」 「それは……『嫌い』と何が違うんだ?」 「わからないわ。わからないけど、」 ふぅ――。 眉間の寄った私の顔を、風と共に白い綿毛がかすめていった。 「けど、何?」 「……嫌いじゃないのよね」 彼の肩にもたれ、白んでゆく山々を眺める。 なんでもない今日の始まりに、ウグイスが鳴いた。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加