ふたりの思いが届くとき

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                エピローグ                                ~ 8カ月後 ~ 「和泉さん」  僕は、厨房にいる水波和泉に声をかけた。 「はい」  彼女が頷いて、調理補助の北村和子が配膳カウンターの前に寄ってきた。 「3番テーブルのお客さんが来ました。料理の盛りつけをお願いします」 「はい」  ピンクのベレーの調理帽をかぶり、白いシャツにピンクのタイを巻いた彼女は、白い洋皿に前菜の盛り付けを始めた。北村和子がそれを手伝っている。全面改装された厨房は大型の換気扇と空調を導入し、もうロビーに調理の匂いが漏れて漂うことはない。  今日の宿泊客は3組6名。お客様もゆったりとくつろげて、僕たちも余裕をもって接客できる人数だ。  出来上がった前菜の皿を僕はロビーに運んだ。美しい木目の高級木材で囲まれたロビー兼レストランの窓際に5つのテーブルが並んでいる。僕は一組が席についているテーブルの上に前菜の皿を置いた。前菜と言っても、洋食のコースにあるような堅苦しいものではなく、彼女が考えたオリジナルの料理やサラダを上品に添えたもので、別に箸でつまんで食べても構わない。彼女はおいしいものをおいしく味わってもらえればそれでいいと考えている。僕もその方が、客室数が5部屋になったこの小さな旅館には合っていると思う。  あの暴風雨での出来事のあと、彼女はラクルートを退職した。ラクルートとは個人契約をして、彼女はときおり原稿を提出している。  僕は秘湯温泉の全館を多額の費用をかけて改装した。もちろん露天風呂も復元した。大きな波でもびくともしないように露天風呂は補強された。  ロビーの窓から見える景色は以前と変わらない。4月の夕暮れの青から紫がかった空のグラデーションと、その光を映す蒼と瑠璃色の波が静かにゆれ続けている。対岸のイサム・ノグチの山の稜線が綺麗に空の景色に溶け込んでいる。雄大な自然がゆっくりとした時の流れを静かに感じさせてくれる。  僕たちがあの時見つけた金塊は時価3億円。初代オーナー、寺田豊作の遺産だった。遺言には、秘湯温泉旅館の所有者にすべて託すと記されていた。つまり僕がその権利を得た。僕は、その資産の大半を使ってこの温泉を改装した。  僕たちがこの金塊を発見したその日の夜、山の斜面が崩れて、山側の露天風呂は大量の土砂とともに湖に沈んでいった。もしあの時、彼女が金色の光に気が付かなかったら、金塊は誰の目にも触れることなく、永遠に湖の底に沈んでいたことだろう。そして僕は路頭に迷っていたはずだ。  なぜ寺田豊作があんな脆い湖の際の露天風呂の床の下に金塊を隠したのか。その魂胆が僕にはなんとなくわかる気がする。 「啓太さん。お料理が出来ました!」  彼女がロビーにいる僕を呼んだ。            『ふたりの思いが届くとき』                  完
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