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館内に戻ったあと、彼女はエプロンを着て厨房に入っていった。今や湖の一部と化した露天風呂を見たあと、僕たちの会話はなくなった。僕は、2階へ行って被害の状況を確認したり、内風呂の状況を確認したりした。2階と露天風呂以外に大きな損傷はなく、内風呂の温泉もいつもと同じように元気よく流れ続けている。
水没した露天風呂は元に戻すのが困難に思われた。大きな岩ので出来た浴槽の壁をもとのように戻すのにはとてつもない労力が必要に思われた。資金があればそれも可能なのだろうが、その資金はない。この温泉の一番の売りの景観の良いかけ流しの露天風呂がなくなったことの衝撃は大きかった。
僕が外に出て、建物の周辺に散らばった木の枝を拾っていると、玄関から彼女の明るい声が聞こえた。
「啓太さん。お昼、出来ました!」
あいかわらず僕をはげまそうとしてくれているのがわかる。この温泉宿がこんな状態ではなかったら、僕たちはとても幸せになれたのではないだろうかと
思った。僕は、額の汗を拭って建物の中に戻った。彼女はいつものロビーのテーブルに料理を運んできていた。僕は厨房で手を洗ったあと、ロビーのテーブルへ向かった。
「はい、どうぞ。ハンバーグです」
僕は席に着いた。彼女も座った。彼女は何かが吹っ切れたような笑顔でいる。
「食べてみて!」
洋皿の半分の場所を温野菜が占め、あとのスペースはポテトとハンバーグが載っている。僕はハンバーグを口にした。出来立てのハンバーグは柔らかく、箸で簡単に切ることが出来た。肉汁が切れ目からあふれだし、ビーフの薫りが広がって、それが鼻を通ると、僕はなんだか活力が湧いてくる気がした。ハンバーグを口にした。肉汁の旨味が広がって、ハーンバークは口の中で溶けた。
デミグラスソースの酸味と旨味が肉の味を引き立てた。僕が今までに食べたことのない味わいだった。
「黒毛和牛と三元豚の合挽きを使ってみました。私の初めての試みです」
僕はハンバーグの味をかみしめた。
「おいしすぎて、普通においしいと言っていいのかわかりません」
彼女が笑った。僕もつられて笑った。現状を考えると、とても笑っていられる状況ではない。僕は彼女がそばにいてくれることに感謝した。
彼女もハンバーグを口にした。
「うん。こういう風になるのね。いいですね」
僕の洋皿の横に、天井から水滴が落ちてテーブルの上で跳ねた。彼女もそれに気が付いた。僕は血の気が引けた。彼女から笑顔が消えた。
「ロビーの天井から雨漏りしています。ロビーの天井もやられちゃってるかもしれません」
「そんな・・・」
「仕方がありませんよ。水波さん。ずっと僕をはげまそうとしてくれているでしょう。ありがとう」
「ここで料理が出来たこと。とても楽しかったなって思いました。もっといろいろとやってみたいのに・・・」
「またいつの日にか・・・」
僕は言いかけてやめた。
昼食のあと、僕は道道へと続く坂道に落ちた木の枝や葉をよけていった。彼女はロビーでラクルートの仕事を片付けると言っていた。あと少しで、原稿作成のノルマを達成するらしい。
木の枝や葉を坂道の脇に除けて行きながら、僕は坂の上の道道までたどり着いた。道道にもたくさん枝が散乱していて、中には大きな枝も道路の上に落ちたままになっていた。道道や国道は、道や市が管理していて、夕方までには整備に来ることになっている。僕は、坂の下の旅館へ踵を返した。
ロビーに戻ると、彼女が窓際でノートパソコンや資料に向かって仕事をしていた。彼女は僕が戻ってきたのに気が付くと、ノートパソコンを閉じた。
「坂の上までは、もう車で行けます。道道や国道は夕方までに開通する予定です」
「ありがとうございます。私、コーヒーをいれます」
彼女が立ち上がって厨房に行った。僕はフロントの裏の事務所に行って長靴からスニーカーに履き替えた。彼女のいれるコーヒーの香りがしてきた。僕はフロントから出て、厨房に入った。
「いい香りですね。でもいつものとは違いますね」
カップにコーヒーを注いでいる彼女に僕が言った。
「モカです。啓太さんも違いが分かるようになってきましたね」
彼女がお盆に2客のコーヒーを載せ、厨房を出てロビーのテーブルへ運んだ。僕たちは窓際のテーブルに向かい合わせに座った。
「啓太さん。私、ラクルートの原稿、全部完成させました」
「良かったですね」
僕はコーヒーを口にした。苦みの少ない甘く広がる味わいに僕は気持ちが安らいだ。
「私がラクルートを辞めても、すぐに困る人は誰もいません」
僕はコーヒーを吹き出しそうになった。彼女は無表情にコーヒーを口にした。
「どういうこと?! まだラクルートを辞めようと思っているんですか?」
彼女は返事をしなかった。しばらく沈黙が続いた。僕は話題を変えて話始めた。
「何とか資金を調達してこの温泉を再建できればいいんですが」
「うまく行きそうですか?」
彼女が話題に乗ってきた。
「借金をまだ一円も返していないのに、お金を貸してくれるところなんて、なかなかないでしょう。そもそも古い建物なので全面改装レベルになるし、露天風呂も直すとなると莫大な資金が必要です。とりあえず2階を撤去して、ロビーの上を屋根だけにしちゃうのが一番安上がりかもしれません」
自己破産という選択肢が脳裏に浮かんでいた。でも彼女には話さなかった。
僕は窓の外に広がる広がる蒼い湖と、対岸に見える凛とした両線の山と、
透き通る淡いブルーの空を眺めた。僕は平然と佇む自然を恨めしく思った。
僕とこの温泉だけが世の中ら取り残されてゆく気がした。
「自然はもう元通りなのに」
「僕も同じことを思っていました」
「あれ? 虹が出てきましたよ!」
イサム・ノグチの山の左のすそ野に細い虹がかかっていた。
「啓太さん、写真を撮ってください!」
「虹の写真ですか?」
「はい。露天風呂から!」
僕たちは急いで露天風呂へ向かった。僕たちは山側の露天風呂の奥へ進んだ。露天風呂と言っても、無論、今は湖の一部と化している。奥まで来て、僕たちは広い足場に立った。
「露天風呂と虹と私を入れて、写真を撮ってください」
僕は彼女から携帯電話を受け取った。僕は角度を吟味して携帯電話で彼女の写真を撮った。
「きれいに写りましたよ」
「ありがとう」
彼女は携帯電話を受け取ると、露天風呂だった場所を見つめた。
「私の夢はここから始まりました」
「夢ですか?」
「世間知らずの私が、初めて夢を見られた場所です」
僕たちが黙ると、セミの声と湖の波の音がリズムのように聞こえた。虹は薄くなっていった。
「水波さん。戻りましょうか」
「はい」
彼女は露天風呂だった場所に小さく手を振った。
「あれ? 何かしら?」
彼女が水没した露天風呂の底の方を凝視して言った。僕も彼女が見つめる先を見た。水中の岩の陰に金色の光の反射が見える。
「光の加減ですか? なんか金属っぽいですね」
僕が言うと彼女が頷いた。僕は、湖側の脱衣所の物置から、露天風呂の中のごみを拾う時に使う鉤付きの棒を取って戻った。そして棒を金色の光の方へ伸ばしていった。よく見ると金色のものは土嚢袋に入っていて、土嚢袋の破れた場所から顔をのぞかせていた。僕は土嚢袋の破れたあたりに鉤を突っ込んで
引っ掛け、水中の土嚢袋を引っ張った。土嚢袋についていた泥が巻き上がって
水中に広がった。土嚢袋は見えなくなった。
僕は土嚢袋をずるずると引きずって僕の方に近づけていった。土嚢袋の泥が周囲の水に流され、次第に鮮明に姿を現し始めた。
「かなり重いです」
僕は、一気に引っぱりあげた。地上に引き上げた時、引っ掛けていた場所が裂けて、土嚢袋は足元にゴツンと音を立てて落ちた。
僕は裂けた土嚢袋の隙間から見えるものを確認した。分厚いビニール袋の中に、金色の金属の板が無数に入っている。僕は、ビニール袋を裂いて、中にある板状の金属を取り出した。手のひらに乗る大きさの割にそれはとても重かった。彼女も僕の手のひらにあるものを凝視した。
「綺麗な金色の板! 何か文字が書いてありますね」
僕は指で金属の板に付いた泥を拭った。彼女が文字を読んだ。
「"FINE GOLD 999.9 1000g"・・・」
「金塊?!」
僕は土嚢袋の中を調べた。無数の金色の板ともに、中から、何重ものビニール袋に包まれた封筒が出てきた。ビニール袋を剥がしていくと、封筒の表面に文字が見えた。『遺言』という文字が書かれていた。
『ふたりの思いが届くとき』
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