一話

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一話

 「ねえ、それ面白い?」  高校から駅へと向かうバスの中。一人の男子生徒が前に座る女子生徒に話しかける。  「・・・いきなりなんですか?」  女子生徒は困惑し、読んでいた文庫本を手に持ったまま、警戒心を高めながら男子生徒の方を振り返る。  「そんな他人行儀にしなくてもいいじゃん、クラスメイトなんだから・・・な、高瀬。」  何気なく言った男子生徒の言葉に、高瀬は驚かされていた。  「・・・まさか柿谷君みたいな人に、私の存在が認知されているとは思いませんでした。」  「認知って・・・もう六月だぜ?高校二年生になってクラス替えして二ヶ月経ってる。それだけの時間を過ごせばクラスメイトの顔と名前ぐらい覚えられるだろ。そんなに驚くことか?」  「陰気眼鏡の私は、柿谷君みたいなスーパースターの眼中には入っていない前提で行動しているので、クラスの外でいきなり話しかけられたら驚くのも当然です。実際話をするのはこれが初めてだし。」  「さっきから高瀬が何を言いたいのか全くわからない。てかなんで敬語?」  一向に嚙み合う気配のない会話。なぜ柿谷が自分に対してここまで気さくに話をしてくるのかが理解出来ない高瀬と、たまたまクラスメイトを見つけたから話しかけただけなのに、なぜ高瀬はここまで自分によそよそしいのかが理解出来ない柿谷。そんな二人を乗せたバスは赤信号に阻まれ、なかなか先へ進まない。  「高瀬って確か帰宅部だろ?」  「そうですけど、それがなにか?」  傍から見れば無愛想な態度を取っている高瀬であったが、柿谷がその態度を気にする様子はない。  「いや、随分中途半端な時間のバスに乗ってるなって思ってさ。六限が終わってからは少し時間が経ってるけど、部活が終わる最終下校まではまだ時間がある。」  「別に深い意味はないです。授業終わってすぐと最終下校時刻はバスが混雑するから、こういう空いてる時間を狙ってるだけで。」  「ふーん。」  質問をした柿谷は、特に興味がなさそうな力の抜けた返事をする。  「それを言うなら柿谷君も・・・この時間は部活じゃないんですか?」  「ああ、部活は家庭の事情で早退した。そうじゃなくてもこんな天気だし、参加したところでろくな練習出来ないし。」  窓の外に目をやる柿谷に釣られ、高瀬も窓の方を向く。  外では人々を鬱屈とした気持ちにさせる雨が降り続いている。バスに乗っていれば雨から身を守ることは出来るが、湿気や濡れた床など、梅雨の爪痕は確かに車内にも残っている。  「そういえば随分話が逸れたけど、高瀬が読んでるそれ、面白いの?」  柿谷は高瀬が手に持っている文庫本を指差し、話を振り出しに戻す。  「私にとっては面白いけど、多分柿谷君にとっては面白くないと思います。」  「なんで?そんなん読んでみないとわからないでしょ。タイトルだけでも教えてよ。」  予想以上にしつこい柿谷君に対しての対応に苦慮した高瀬は少し考えた後、素直に自分が読んでいる本の内容を伝えて柿谷を諦めさせることにした。  「私が読んでるこれBLの小説だから・・・柿谷君が読むようなものじゃありません。」  「B・・・L?なにそれ、SFなら聞いたことあるけど。」  「ボーイズラブの略です。男性同士の恋愛をテーマに書かれたジャンルの総称で。」  「ふーん。」  またしても柿谷は興味なさげな態度を見せる。その態度を見た高瀬は、本当はBLの意味を知って私のことを気持ち悪いと思ったけど、柿谷はそれを顔に出さないようにしているんだろう、と思った。しかしその直後、柿谷の口から予想外の言葉が出てきた。  「それで、タイトルは?」  「え?」  てっきりBLと聞いて自分の持つ文庫本への関心は失せたものだと思っていた高瀬は、改めてタイトルを尋ねられて動揺をする。  「読んでみたいからタイトル教えて。」  「いや、だから私が読んでるのはBLで」  「BLでもXLでも何でもいいけど、読んで面白いか面白くないかを判断するのは俺で、肝心なのはジャンルじゃなくてそれが面白いかどうかだろ。俺は普段小説なんて読まないけど、それが高瀬の読んでいる本をつまらないと思う理由にはならないだろ。」  真っ直ぐ高瀬の目を見て、はっきりと言い切った柿谷。その姿に高瀬は、思わず自己嫌悪に陥る。  常日頃、高瀬はBL好きという自分の趣味嗜好に関して、誰に対しても胸を張って話すことが出来ると自負していたつもりだった。それだけBLというコンテンツに誇りを持っているし、性的な描写だけでなく物語の筋書きにも心惹かれ、BLの枠に囚われず素晴らしいと思った作品を布教するためのプレゼンテーションを、脳内で何度も行った。  そして今この瞬間がまさに、自分の好きなものを相手に伝える千載一遇のチャンスであった。ジャンルという外見に惑わされず、本当に素晴らしい内面を紹介する。自分はそれが出来る人間だと思っていた。  しかし、結果はどうだ。相手が男、しかも柿谷という上流階級の人間だからという理由だけで、どうせBLは受け入れられないと尻すぼみしてしまった。挙句自分が読んでいるものがBLであるとばれれば馬鹿にされるのではないか、というBLと柿谷、両方を一度に侮辱する思考を働かせてしまった。  それに対して柿谷はどうだ。肝心なのはジャンルではなく作品の質。そんな当たり前で最も重要な心構えを持ち、BLに一切の偏見を持たない姿勢を示した。  「・・・好きなものすら誇れない醜い私と、どんなものにも門戸を開いている柿谷君。差が生まれるのは当然だよね・・・」  「なんて?今タイトル言った?」  首を横に振った高瀬は、改めて柿谷の方を振り返り、小さく微笑みながら文庫本の表紙を柿谷に見せた。  「いやー、高瀬の話を聞いてると俄然興味が湧いてきた。帰り本屋で探してみるわ。」  駅へと到着し、バスから降りた二人。柿谷のこの言葉を最後に、それぞれ私鉄と地下鉄という違う帰り道に歩みを進めた。階段を上り私鉄のホームへと向かいながら、高瀬は柿谷のことを考えていた。  柿谷という男は、まるでヒーローになるために生まれてきたような男だ。学校内の噂話はおろか世間話にも疎い高瀬でも、柿谷にまつわる様々な武勇伝を耳にしている。  結構な進学校であること以外は特徴のないこの公立高校の野球部を、柿谷の存在によって本気で甲子園を狙えるレベルに引き上げたとか、それだけ野球に打ち込みながらも成績は常にトップであるとか、シンプルにイケメンであるとか、とにかく話題には事欠かない人物である。  そんな人物と、まさかBLの話で盛り上がる日が来るとは。高瀬は予想だにしなかった。実際は高瀬一人が話続け、柿谷が聞き手に回っていただけだが。  それでも高瀬の中には、普段全く関わりがなく、話したこともない女子に、同じクラスという理由だけで話しかけてきたという柿谷の行為に対して、僅かではあるものの違和感があった。  まず第一に、柿谷の態度から見て何か悪意があって高瀬に接近した可能性はないと言っていい。  「罰ゲームとしてお前、あの陰キャ女に話しかけてこいよ。」  という限りなくいじめに近い質の悪い内輪ノリに無理やり巻き込まれた経験のある高瀬は、自分が虐げられているかどうかというセンサーが非常に敏感であった。相手の言動、仕草、挙動などから自分に対する感情を必要以上に推測してしまい、相手に悪意がない場合でも勝手に傷ついてしまうような自分がストレスなく話を出来た時点で、柿谷に裏はないだろうと高瀬は判断をした。そもそも、あのバスの中に同じ高校の生徒は高瀬と柿谷しかおらず、仮にくだらないゲームの一種だとしても、柿谷が高瀬に話しかけたという事実を目撃している人物がいない。それでは罰にもならないだろう。  その一方で悪意の逆、柿谷が自分に対して好意を寄せているために話しかけてきた可能性についても、高瀬は否定的であった。  これには、私はちょっとイケメンに話しかけられたからといって浮足立つよ程思い込みの激しい人間ではない、という高瀬本人による自らへの戒めも含まれているが、自分と柿谷のやり取りを客観的に見て、お世辞にも色恋沙汰になりそうな気配がなかった。  それに付け加えるなら、クラスでの柿谷を見る限りは、特別お喋りな人間であるという印象は受けない。もちろんクラスどころ学校に一人も友達がいない高瀬とは違い、どこにいても柿谷の周りには人が集まり、一人でいる姿を見かけることは極めて稀ではあるが、誰かが柿谷に近づくことはあっても、柿谷から誰かに寄っていく姿は稀どころか一度も見たことがない。  野球部の二年生エースで成績優秀、そしてイケメンともなれば自分から腰を上げなくともちやほやされるのは誰にでもわかることで、自分から交友関係を広げる努力をする必要がないと言ってしまえばそれまでだが、柿谷という人間はたかが帰り道の数十分、孤独に耐えかねるという理由だけで、目の前にいた話したことのないクラスに声をかけるとは考えにくい。  つまりこれらを総合すると、柿谷は何か理由があって高瀬に声をかけた。悪意に満ちたいじめ行為でもなく、恋の始まりなんて心躍るようなものでもない、もっと別な理由で・・・  こんな妄想を膨らませているうちに、電車は高瀬が降りる自宅の最寄り駅へと到着した。電車から降りると同時に、高瀬は小さくため息をこぼす。  何でもかんでも理屈を求め、妄想を膨らませるのが私の悪い癖だ。別に柿谷君が私に話しかけてきた理由に深い意味なんてないだろう。彼の様子を見る限り、ただ単純に私が読んでいた文庫本に興味を持ったから質問しただけだよね・・・あれこれ思案するのは時間の無駄だし、よくわからないけど柿谷君にも失礼な気がする。      この時、高瀬はまだ知らなかった。この日がきっかけとなり、思わぬ形で柿谷との関わりを深めていくことになるとは。  「・・・あっつ。」  初夏の日差しを正面から浴び続けた高瀬は、流れ落ちてくる汗をタオルで拭う。  定期試験を終え、夏休みもすぐそこまで迫ってきている。高瀬にとって夏と言えば、蝉の声すら遮られた空調の聞いた部屋でさっさと宿題を片付け、後は本を読むかネットサーフィンをする。そんなインドアを極める高瀬であったが、今回は珍しく炎天下の中の外出を行っていた。  「もしかしてさ、マジで甲子園行けんじゃねえの?」  「無理無理・・・だって相手○×高校だぜ?」  「いやいや、うちの県で俺らみたいな公立高校がベスト4まで来たのが奇跡みたいなもんだし、後二つぐらい勝っちまうかもよ。」  「ここまでいい勝負してるよな?」  周りのあちこちから、もしかしたら起こるかもしれない奇跡を期待して浮足立つ様子が伝わってくる。  そう、何を隠そう柿谷がエースを務める野球部は学校史、そして近年の高校野球史に残る快進撃を続け、ついには県大会のベスト4にまでたどり着いたのだ。今回高瀬が野球場に足を運んだのも、この準決勝において実施された全校応援に参加をするためであった。    いや、甲子園とかどうでもいいからさっさと終わってくれないかな?このままだと私、試合終了のサイレンが鳴る前に別のサイレンが鳴り響く乗り物に乗る羽目になりそうなんだけど。  当然そんなブラックジョークを口にする相手もいない高瀬の不満が周りに漏れることはない。  こんな具合でとにかく早く帰りたい高瀬であったが、野球部の準決勝進出、準決勝で全校応援の実施が伝えられた時には、実は不満よりの楽しみの方が大きかったのである。  野球に関しては一切の知識を持ち合わせいない高瀬であったが、甲子園という場所が特別であるということは何となく知っていた。そして自分の高校がその甲子園に手が届きそうな場所に来ていることを知れば、甲子園を目指して戦う野球部の姿を一度くらいは見ておきたいという気持ちも生まれ、行けるものなら自分の高校を応援するために甲子園にも行ってみたいという下心も人並みには芽生えていた。  しかしいざ集合時間に球場に行ってみると、応援の練習だなんだと付き合わされてなかなか試合は始まらないし、試合が始まっても野球のルールがよくわからないから何が面白いのかもわからないい。それよりなによりとにかく暑い。試合が進む、つまり球場にいる時間が長くなれば長くなるほど高瀬のストレスも雪だるま式に大きくなり、五回が終わった現在、高瀬は母校の勝利よりも早期決着を望む様になっていた。  ここまでのスコアは3‐0。ピッチャー柿谷の好投、そしてバッター柿谷のタイムリーなどによりリードしている状況である。流石の高瀬にすら、よくわからないけど凄いなー、という感心を抱かせる程、柿谷の投打にわたる活躍は目を見張るものがあった。  しかし相手は過去に甲子園制覇も経験している名門私学。このまま公立高校の躍進を黙って見過ごす訳にはいかない。六回に一点、そして八回に一点を返し、反撃の狼煙を上げる。  そして迎えた九回の裏。ここで公立の雄を率いる監督は、相手チームの攻撃が始まる前、柿谷ではない三年生ピッチャーをマウンドへと送り出した。  「ええ、噓だろ?」  「大丈夫かよ・・・」  九回の裏、点差は一点。この場面で今大会ほとんど一人で投げ抜いてきた柿谷に代わって出てきたのは、一回戦以来登板していない三年生だ。公立高校の応援スタンドだけでなく、球場全体にざわめきが起こる。  この時点で、勝負を決まっていた。  結局この後、その三年生ピッチャーは一つのアウトを取ることも出来ず、名門私学のサヨナラ勝ちを許したのであった。  「・・・ありがとうございました!!!!!」  選手たちは溢れ出す涙を堪え切れずに、特に敗戦投手となった三年生ピッチャーは歩くことすらままならない大号泣で、仲間に両脇を抱えられながら応援をしていたスタンドに挨拶をしにきた。その時は頭を下げる選手たちに殊勝な拍手を送っていたスタンドの生徒たちであったが、撤収作業が始まりほとぼりが冷めてくると、口々に責任の所在について言及を始める。  「やっぱり最終回にピッチャー代えたのが間違いだよな。」  「あの監督何がしたかったんだよ・・・意味がわからん。」  「そもそも柿谷の失点って、両方ともエラー絡みだろ?球威が落ちた様子もなかったのに・・・」  「まあ来年に期待だな。エースで三番の柿谷、キャッチャーで四番のタナベ、後セカンド、サード、それにセンターも二年生だし、ショートに至っては一年生だろ?」  「うわ、三年ほとんど出てないじゃん。使えねえな、うちの三年。」  そんな言葉を耳にする度、高瀬は何とも言えないもやもやを感じていた。  責任の所在を明らかにしようとする彼らに、選手たちを傷つけてやろうなんて攻撃的な意思はないだろう。負けに不思議な負けなし、なんて言葉の通り、必ず敗北には理由がある。いつかはこの敗北を正面から受け止めなくてはならない日が来るのかもしれない。  だが今年の敗北を来年への糧にする選手たちではなく、スタンドでただ眺めていただけのここにいる生徒が、敗北の原因なんてものを探り出す必要があるのだろうか。高校の代表としてこの場で試合をしたことは誇りに思うが、野球部が負けたからと言って高校が潰れてしまう訳でも、誰かが死ぬ訳でもない。  冷たい言い方をすれば、ここにいるほとんどの人間にとって野球部の勝敗なんて本来どうでもいいことなのだ。にも関わらず、少し野球を知っている人間は自分の知識をひけらかすように、敗北の理由を見つけ出そうとしている。  勝ったら良かったね、負けたら残念だったね。それ以上部外者である自分に言える言葉が果たしてあるのだろうか。例え誰にでもわかる明らかなミスや失敗があったとしても、それを𠮟責し改善を促すのは、当事者同士でやるべきことであり、部外者にはその責任も権利もない。    他人のことで熱くなれるなら、その労力を自分に使えばいいのに。まあ、どうでもいいけど。  暑い、だるい、帰りたいという思考が頭を支配する中、一滴の涙も流さず無表情でスタンドに挨拶へ来た柿谷の顔が、やけに高瀬の印象に残っていた。  「いってきまーす。」  世の中には二種類の人間がいる。時間で金を買う人間と、金で時間を買う人間である。  「はーい、いってらっしゃい。」  野球部の敗退から数日後、夏休みにも関わらず制服に身を包み、母親に見送られて学校へと向かう高瀬は、間違いなく前者に当てはまる人間であろう。  高瀬は非常に真面目な人間である。その真面目さ故に、様々な物事にコツコツと努力を積み重ねることが出来る。そんな彼女が高校二年生の今、力を入れて取り組もうとしているのが、大学受験である。今日の高瀬は、学校で実施される夏期講習に参加をするために長期休業前と同じように家を出た。  学校の授業を真面目に受け、定期テスト対策を毎回きちんとこなしていけば、自ずと受験に通用する力は身につくはず。子供の勉強費用という親の足元を見て、法外な金銭を要求する予備校と言う名の汚れた集団に対して払うお金なんて、うちには一円たりともありはしない!  予備校不要論の信仰者である高瀬は、少々過激な思想を持ち合わせてはいるものの、それは両親を想い、日々の学校生活を疎かにすることなく過ごしている裏返しでもある。事実、高瀬は高校受験の際も予備校の世話になることはなく、今通っている公立進学校の合格を勝ち取った。  とは言え、高校受験と大学受験では受験に望む人間の熱量や覚悟、受験者数に至るまで何もかもが違う。成績自体は悪くないものの、ペーパーテストに自信を持っているタイプではない高瀬は、推薦での大学進学を第一希望としつつも、一般入試への対策、そして更なる成績の向上を目指し、別途費用がかからない学校主催の夏期講習への参加を決めた。  それにしても、休みの日に学校に行くって、なんかワクワクしちゃうな。  帰宅部である高瀬は、休日の通学というものに慣れてはいない。普段よりも少し遅い、通勤通学ラッシュを過ぎた時間帯の電車は、座席に腰を下ろさなければ不自然な程空いている。駅から学校へと向かうバスでも、同じように夏期講習に参加する人間と、部活目的であろう日焼けした人間がちらほら見受けられるだけで、当然いつもの混雑はない。  空いている電車とバス、そして夏休みに学校へ向かうという謎の高揚感により高瀬は、暑いのに休日返上で登校をする、というストレスをあまり感じていなかった。  「えーそれでは、早速授業を始めていきたいと思います。」  普段使っている教室とは違う、机も少なく掲示物も個人ロッカーもない無機質な教室で、集まった十数人を前に教師が授業を始める。  実に静かで、滞りなくスムーズに進む授業に、高瀬だけでなく他の参加者、そして進行をする教師すらも心地良さを感じていた。  今ここには、ごちょごちょと授業中に私語をする連中も、堂々と居眠りする姿をひけらかし、真面目な人間のモチベーションを奪う連中も、自分が話を聞いていないことを棚に上げ初歩的な質問を繰り返し、授業のテンポを悪くする連中もいない。いるのはわざわざ夏休みに学校へ来て、自由参加の夏期講習を受けている物好きだけ。つまり授業に真摯な姿勢で臨む人間しかいないのだ。  その真面目な授業態度は生徒同士互いにモチベーションを向上させ合い、そんな生徒たちに感化され教師も気持ち良く授業を進める。生まれた好循環の恩恵を、この場にいる人間は夏期講習の手土産として持ち帰る。  「はい、お疲れ様でした・・・これから昼休みになりますが、午後の最初は古典の授業があるので、そっちも取っている人は授業開始五分前にはこの教室に戻ってきてください。」  文系科目を大の得意としている高瀬は、わざわざ受ける必要がないと午後の授業を取っていない。つまり、今日はこれで帰宅となる。    さて、お昼ご飯どうしようかな・・・  学校がある平日は母が作ってくれる弁当、休日は母が作る昼ご飯で腹を満たしている高瀬。さらに言えば世間話やテスト勉強などという名目で友人とファストフード店やファミレスに行った経験もない彼女にとって、外食というのは恐ろしく高いハードルであった。  しかし、高校生になり、食に対してもそれなりに興味がある高瀬は、親のいない場所で外食してみる、ということに対し、漠然とした憧れのようなものを持っていた。  そして今日、正午過ぎに予定が終わり、腹の減り具合を踏まえてみると、まさに今が外食チャンスなのではないかと気がつく。だがそれと同時に、どの外食を想像しても、これといったものが思い浮かばずに二の足を踏んでしまう弱気な自分にも気がつく。  ほとんどお小遣いを使わない高瀬にとって、値段はそこまで問題ではない。とは言え何千円、もしくはそれ以上するランチを食べることは到底不可能だ。かと言ってランチの定番であるラーメンも、自分が一人でラーメン屋に足を運ぶ絵が想像出来ない。ハンバーガーを始めとするファストフードはそもそも好みじゃないし、カフェでパスタに舌鼓を打つのも柄じゃない。  やっぱり、大人しく家でお母さんに作ってもらお。  外食を諦め、さっさと帰宅するという決意を固めた高瀬。昇降口を出て、真上から照らしてくる日差しを受け止めながらバス停へと向かう。校門を出れば、たかが数十メートルのところにバス停はあるのだが、朝よりも強さを増し、全てを焼き尽くしてしまいそうな日差しの下では、その数十メートルすらも大冒険となる。  「ふぅ・・・」  バス停にたどり着いた後、バスを待つ間ベンチに腰を下ろしひと息ついていると、校門の方からこちらへ向かってくる人影を見つけた。日差しに体力を奪われる様子もなく、軽やかな足取りでこちらへ向かってくるその人物に気づいた後、高瀬はどのように接するか少し迷いがあったが、その迷いが深いものになる前に、向こうが高瀬に話しかけた。  「よっ、久し振り。」  「・・・柿谷くん。」  梅雨の時期、雨が降る帰り道にバスの中で話して以来の会話に少し緊張する高瀬とは対照的に、まるで毎日顔を合わせている間柄であるかのように、柿谷は気さくに声をかけてきた。  「まさか夏休みに柿谷くんに会うことになるとは・・・すごい偶然だね。」  「いや、偶然じゃない。」  「え?」  まさかの言葉に動揺する高瀬。そして珍しく照れくさそうにしている柿谷が話を続ける。  「実は俺、二つばかり高瀬に報告することがあって・・・まあたいした話じゃないからバスの中で、って思ったんだけど・・・お、丁度来た。」  あの日雨から高瀬と柿谷を守ったバスは今、強烈な日差しとアスファルトの照り返しから二人を守り、冷房によって冷やされた快適な空間を提供する。  「それで、報告って?」  バスが発進した直後、あの梅雨の時と同じように柿谷の前に座った高瀬は、後ろにいる柿谷の方に振り返って問いかける。  「まずこれなんだけど・・・」  柿谷は自分のバッグの中から、高瀬が勧められたBLの文庫本を取り出す。  「すまん、高瀬のオススメだったからとりあえず読もうと思って買ったけど、十ページも読めずにギブアップしちゃった・・・本当に申し訳ない!」  「い、いや、別にそんなこと謝らなくてもいいけど・・・」  これまた予想外のことで真剣に謝罪してくる柿谷に、少し困惑した高瀬であったが、困惑以上に変なところで真っ直ぐな、言わば柿谷らしさのようなものに安心をして、さっきまでの緊張をほぐすことが出来た。  「それで?報告はもう一つあるって言ってたけど。」  「ああ、こっちは本の話以上に高瀬にはどうでもいいことだと思うけど・・・」  前置きの後、柿谷自身すらも興味がない事柄を伝えるようなテンションで、言葉を発する。  「俺、野球部辞めたんだ。」  「・・・は?」  あまりの衝撃にしばらく言葉を失った高瀬であったが、駅に着くやいなや、詳しく事情を聞き出すため強引に駅前のファミレスへ柿谷を連れ込んだ。  奇しくも、高瀬は親のいない外食を経験することとなった。しかも異性との一対一で。                
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