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二話
「全員集合つ!」
「はいっ!!!」
話は高瀬と柿谷が始めて会話をした梅雨の日の一週間前、野球部の練習終わりにまで遡る。
「ついに、我々も明日夏の大会初戦を迎える。春の大会で結果を残し、シード校として迎える初めての夏だ。もちろん我々は挑戦者の立場であるが、相手はそんな我々を相当警戒し、それこそ挑戦する気持ちで試合に臨むだろう・・・だからこそ、私はきれいごとを言うつもりはない。お前たちが気持ちで負けなければ、試合には必ず勝てる。それだけ、お前たちの実力は本物だ。自信を持っていけ、わかったな?」
「はいっ!!!」
「そして明日の先発だが、柿谷ではなく今泉で行こうと思う・・・いけるな、今泉。」
「はいっ!」
「柿谷は明日、ライトを守ってくれ。それ以外に関しては基本いつも通りでいくが、細かいオーダーは明日伝える・・・以上、解散。」
「ありがとうございましたっ!!!失礼しますっ!!!」
号令を終えると、監督を中心に出来上がった円陣が解ける。柿谷はその足でグラウンド整備器具を手に取り、黙々とグラウンドの土をならし始めた。するとその姿を見た一年生たちが、慌てて柿谷のもとへと駆け寄ってきた。
「柿谷先輩、グラウンド整備は一年の仕事です。ここは僕たちに任せてください。」
「荷物持ちは三年生、グラウンド整備は二年生で、一年生には特に仕事はないはずだけど・・・」
平然と言ってのける柿谷にほとんどがキョトンとする中、一年の中の一人が反応する。
「・・・柿谷さん、それ高校のルールじゃなくて、僕と柿谷さんが中学までいたクラブチームのルールです。」
「あれ、そうだったっけ?」
とぼけて笑う柿谷を見て、野村はため息をこぼす。
反応をした一年の野村は、小学校、中学校と柿谷と同じクラブチームで野球をし、柿谷同様多くの私学名門から誘いを受ける中、柿谷と同じチームで野球をしたいという理由でこの高校の野球部に入った人物である。
中学以前に柿谷と同じチームで野球をしたことがあるのは、この野村と同級生で幼馴染の田辺だけであるが、柿谷の存在を理由にこの野球部に入部したという一、二年は少なくない。それによって一、二年の部員は三年に比べて数が多いだけでなく、かなりの実力者たちが集まってきた。その結果この高校は、強豪ひしめくK県において公立高校ながら、甲子園出場を射程距離に捉えることが出来ている。
「とにかく、ここでは僕たち一年がやりますから、柿谷さんは早く部室で着替えて下さい。」
「でも一年って上級生が帰った後部室の掃除までしなきゃいけないでしょ・・・雑用なんて組織に馴染んでる上級生がやるべきで、まだ入ったばっかりで慣れない下級生はとにかく野球に集中して、先輩にやってもらった恩は来年の新入生に返す。こっちの方が筋通ってると思うけどね。」
「いや、確かにクラブの監督も同じこと言ってましたけど、郷に入っては郷に従え、です。それにエースの柿谷がトンボがけしてる姿を三年の先輩に見られたら、怒られるのは僕たち一年なんですから・・・お願いだから早く戻って下さい。」
「えーでも俺、自分で使ったグラウンドは自分で掃除しないとなんか気持ち悪いんだよね・・・」
「ああもう、しつこいなあー!さっさと部室戻れよ・・・てかこのやり取り毎日やらないと駄目か?何回も何回も同じこと言わせるなよ、先輩!」
年上の柿谷に平気で説教を始める野村。いくら付き合いが長くとも、これは言いすぎなのではないかと他の一年が思わず冷や汗を流す中、当事者である柿谷は少し怯えたような表情を浮かべている。
「うわ、おっかねえ・・・これ以上野村クンを怒らせると何言われるかわかったもんじゃねえな・・・さっさと帰ろっ。」
そう言って整備用具をその場に置き、その丸まった背中で圧倒的小物感を漂わせながら、柿谷はグラウンドから姿を消した。
「お疲れ様でーす。」
威勢のいい声と共に勢い良く部室の扉を開くと、中にいた二、三年生の視線が柿谷に集まる。特に三年生の視線は、柿谷に対する敵対心を隠そうともしていない。
だが柿谷はそんな視線を気にも留めず、自分のロッカーへと向かい着替えを始める。そして少しずつ会話も再開され、部室の空気も柿谷が入る前に戻っていく。
「おい、早く着替えろ。さっさと帰ろうぜ。」
二年の中で唯一柿谷と中学以前も野球をしていた幼なじみ、田辺が柿谷の肩を叩き、先に部室を後にする。それから遅れること数分後、柿谷も部室を出て田辺と合流する。
「悪いな待たせて。帰ろうぜ。」
そして二人は帰り道を歩み始める。高瀬と会話をした時は天気のこともありバスを使った柿谷であったが、普段駅と学校を行き来するのにバスは使わず、片道約三十分の道を歩いている。
「ったく三年の連中は、未だに俺たち二年のことを目の敵にしてやがる・・・ホント、器の小っちゃい奴らだよ。」
不機嫌そうに口を尖らせた田辺が愚痴をこぼす。しかし、それに柿谷が反応することはない。
「監督も監督だよ、あんな連中に媚びを売るために初戦の先発を今泉サンにするなんて・・・あの人じゃあ、そこら辺の公立校も抑えられねえよ。その癖、打たれたら一丁前にリードのせいにしやがるし。」
田辺の愚痴は止まらない。隣を歩く柿谷は爪をいじりながら、話を聞いている素振りも見せない。
「まあもう少しの辛抱だ。来年の夏こそ本番・・・もちろん今年も勝ちにはいくが、本気で甲子園を狙えるのは俺たちが三年になった来年だ。後少し我慢すれば、余計なことを考えずに野球に集中出来る・・・なのに」
くるっと振り返り、柿谷に視線を送る田辺。流石の柿谷も、手元から顔を上げて田辺と目線を合わせる。
「なのにてめえは、いつまで経っても三年に喧嘩売りやがって・・・マジでいい加減にしろよ。」
「え、俺?・・・俺、先輩に喧嘩なんか売ってないよ。」
静かな怒りを燃やす田辺に対して、思わず首を横に振り、身に覚えがないことを表明する柿谷。
「お前、また今日もグラウンドの掃除しようとしただろ。」
「え、あ、うん・・・でも野村に怒られてやらせてもらえなかったけど。」
苦笑いする柿谷を見て、田辺は呆れ顔でため息を漏らす。
「・・・そういうとこなんだよ。」
「そういうとこって?」
「だから、普通の公立校野球部をエースとして甲子園を狙えるレベルに引き上げるような能力を持ちながら、気取ることも肩で風切ることもせず、率先して雑用をこなそうとするお前の謙虚さが問題なんだよ。」
「謙虚って・・・俺は別に褒められようと思ってやってる訳じゃ」
「別に褒めてねえから。」
照れくさそうに頭をかく柿谷に田辺は一度鞭を入れてから、飴を含んだ本題を切り出す。
「いや、確かに俺はお前を褒めた。俺たち二年と一年は、お前のそういう人間性の部分を含めて、一緒に野球をしたいと思ったからこの高校の野球部を選んだとこもあるしな・・・ただ事実、三年にはお前の優等生的思想が鼻についている面もある。」
「そんなこと言われてもなあ・・・俺はただ後輩が雑用する姿を見てると落ち着かないから自分でやりたいだけなのに。」
「だからその気持ちをもう少し我慢しろって言ってんだよ。あいつらが引退して、俺たちが最上級生になったらみんなで一緒に掃除だろうが荷物持ちだろうがやってやる。だから今は堪えてくれ。お前が好き勝手やるしわ寄せを受けるのは立場の弱い一年やベンチから外れた二年なんだよ。」
「はあ・・・」
柿谷の煮え切らない返事を聞いて、大事な夏の大会初戦を前に一体何の話をしているのだろうと田辺は我に返る。
「まあとにかく、明日は大事な初戦だ。実力で言えば俺たちが上なのは間違いないが、先発が今泉サンだとどうなるかわからないし、早々にお前がマウンドに上がる展開になる可能性も高い。ちゃんと準備しておけよ。」
「・・・なんかお前が監督みたいだな。」
「そうやって油断して、真面目な話を茶化す奴がいると足元すくわれるんだよ。」
油断という言葉に反応してか、急に笑みを消し、真剣なな表情になる柿谷。
「俺は誰にも負けたくない。相手の強さなんて関係ない。どんな相手だろうが絶対に勝つつもりで臨むし、勝つために出来ることは全てやる。もし本気で俺が油断していると思ってるなら、それは杞憂だぜ。」
「・・・相変わらず冗談が通じないな。お前が誰よりも負けず嫌いなのは俺が一番知ってるよ。」
柿谷は物心ついた時からの悩み、というよりも晴れる事のない心のもやのようなものを抱え続けていた。
「ストライクスリー、バッターアウト、ゲームセット!!!」
そのもや自体はたいしたものではなかった。トラウマのような負の感情ではないし、日常生活に支障をきたすものではない。そして柿谷は周囲が自分に対してどのような視線を送っているかを理解していたため、心のもやを打ち明けたところで、理解してくれる人間などいるはずがないと思っていた。
しかし高瀬との会話をきっかけに、それまでは気になるが無視出来ていたもやが、視野を奪い、前に進むことを困難にさせる程、確かに柿谷の中で存在感を増していっていた。
そして柿谷は、その自分の中に生じた迷いを周囲に隠し続けられるような器用さを持ち合わせてはいなかった。
「・・・快勝したとは思えない表情だな。」
準々決勝を勝利して球場を後にした帰り道、バッテリーを組んだ田辺が柿谷に声をかける。
「やっぱりわかるもんなのか?」
「負けた時には周りが手を付けられない程悔しがる割に、勝った時は例え相手が強豪だったり舞台が決勝だとしても喜ばない。お前は昔からそうだったが、準々決勝という舞台で今日のような内容のピッチングでそんな湿っぽい顔をされたら、嫌でも目に入る。」
苦笑いを浮かべる柿谷に対して、田辺は続ける。
「お前は俺たちと頭の出来が違うから、俺にはお前が何を考えているのかわからないし、わかろうとも思わない。ただ言えることは、単純なことをわざわざ複雑に考えると変な沼にはまることがあるから気を付けろ、ってことだ。目の前の試合を勝つために全力を出す。今俺たちが考えるべきことはそれだけだ。余計なことを考えるな。」
田辺の言葉を最後に、二人は会話をすることなくそれぞれの家路についた。
そして迎えたのが、逆転サヨナラ負けを喫した準決勝の舞台であった。
序盤戦を優位に進めながら、最終的に名門校の意地を見せられ悔しい結果になった試合を終えたロッカールームでは、選手たちのすすり泣く声があちこちから聞こえ、涙する選手を慰める選手もまた目を真っ赤にしている。高校の部活動ならではの美しくもはかない光景が広がる中、柿谷はただ一人、乾いた瞳と鬼のような形相で壁を睨みつけていた。
負けた時には周りが手を付けられない程悔しがる。田辺の言葉の通りであった。三年生にとって最後の大会であるとか、あと二つ勝てば甲子園であったなどという状況に関係なく、柿谷にとっては敗北という事実がいつ何時においても受け入れがたい屈辱なのだ。だから涙を流して感傷に浸るのではなく、静かに自らの不甲斐なさに腹を立てていた。
そんな姿を見かねてか、この試合失点に繋がる二つのエラーを犯した野村が柿谷のもとへと駆け寄る。
「ごめん・・・俺が、俺がエラーしたばっかりに・・・」
一年生唯一のスタメンという重圧の背負いながら大事な試合でミスをしてしまった野村は、他の選手たちとは少し質の違う、自責の念を思わせる涙を流しながら柿谷へ謝罪した。
「いや、あれは二つともエラーじゃない。お前に飛んだ二つの打球はかなり強い打球だった。あれだけ相手に強く振られる所にボールを投げた俺の責任だ。」
「で、でも」
言葉を続けようとした野村を、柿谷は鋭く睨めつける。無論柿谷は野村を責めるために睨んだ訳ではなく、悔しさを消化し切れていない今、他人の言葉に耳を傾ける余裕がないだけであった。しかし、周囲の人間全員そのように解釈をするとは限らない。
「おい柿谷、あんまり一年を責めてやるなよ。可哀想じゃねえか。」
次に柿谷へ近づいたのは、キャプテンで控えキャッチャーの中谷だった。
「・・・中谷サン、あんま適当なこと言わないでください。いつ俺が野村を責めたんすか?」
「その顔・・・今俺に向けてるような顔で睨まれれば、誰だって責めていると思って当然だろ?」
中谷の指摘を受け柿谷は、表情を変えないまま数秒間黙った後、唐突に野村の方へ顔を向けた。
「・・・野村、俺お前を責めてないから・・・マジで。」
「あ、はい。」
厳しい表情や低い声と、擁護の言葉という似つかわしい組み合わせを見た野村は急激に冷静さを取り戻し、とめどなく流していた涙すらも枯らしてしまった。
「おいおい野村、先輩に気を遣う必要はねえんだぜ?あんな怖い顔で、責めてない、って言われても信用出来ないよなあ?」
意地の悪い顔で問いかけてくる中谷に対して野村は、売られた喧嘩を買うように反抗的な態度を示す。
「心配していただかなくても大丈夫ですよ。俺は柿谷先輩を、少なくともあんたらよりかは理解してますから、柿谷先輩がエラーをした後輩をネチネチと追い詰めるような性悪じゃないことぐらいわかってます。」
「それじゃまるで、柿谷の他にその性悪がいるみたいな言い方だな。」
「そう聞こえましたか?先輩に気を遣う必要はないと仰ってたので、遠慮なく思ったことを言ったまでですが。」
「・・・大事な試合で負けに繋がるエラーを二個もした割には、随分立ち直りが早いな。」
「ついに本性を見せましたね・・・大体、柿谷先輩は僕のミスをカバーしてくれるようなピッチングをしてくれていた。だから九回の裏も柿谷先輩がマウンドに上がっていれば勝てる可能性が十分あった。それなのに、それなのにあの・・・」
「そこまでにしろ。」
周りも自分の手を止めて二人のやり取りに目を向ける中、感情に任せて思いの丈を全て吐き出そうとした野村を制するように、田辺が会話に割って入る。
「野村、お前はついさっき柿谷に言われた言葉を忘れたのか?お前を責めてないって、そう言われただろ?その言葉に気持ちを救われたお前が、他の誰かを責めようとしてどうするんだよ。」
「・・・」
田辺に諭されたことで、様々な感情が湧き上がってきた野村はその感情を体の内側だけで処理することが出来ず、再び涙を流し始める。
「中谷サンも、あんまり一年相手にムキにならないでくださいよ。特に野村は唯一の一年レギュラーとして試合に出て、色んなプレッシャーを背負った中で立派にプレーしたんです。そんな人間に対して三年のあんたが喧嘩を売るなんて、はっきり言ってどうかしてますよ。」
素直に田辺の言葉に耳を傾けた野村とは対照的に、中谷は反省の色を見せることもなく、田辺を新たな標的として口撃を再開する。
「立派なお言葉を頂いちゃったなあ・・・流石次期キャプテン、とでも言っておこうかな。」
「中谷サン、何が言いたいんすか?」
ミイラ取りがミイラになる、とでも言うべきか。喧嘩の火種を消火しにきた田辺を新たな火種として、ロッカールームに新たな緊張感が生じる。
「別に言いたいことなんてない。ただ俺は優等生な次期キャプテン様とは違って人間が出来てないから、今のお前の行動を生意気な一年と大人げない三年による喧嘩の仲裁として捉えないで、仲裁のふりをして三年に対して溜まった鬱憤をここで解消しようとしているじゃないかって考えちゃってさ。」
不快感をまき散らすような、陰湿な笑みを浮かべ挑発をする中谷。悔しい敗戦の直後ということもあり、この挑発を受け流す余裕が今の田辺にはなかった。
「へえ、変な所で勘が働くんすね。その脳みそを少しでいいから野球に使えてれば、ちょっとはマシなプレーが出来たんじゃないすか?」
「はは、田辺の言う通りだ・・・野球が上手ければ生意気な態度も許されると思ってる後輩への指導なんて手間がなければ、もっと野球が上手くなれたかもしれないな。」
互いに白い歯を見せながら、じりじりと間合いを詰めていく田辺と中谷。近寄りがたいその雰囲気に、周りの人間も固唾を飲んで見守ることを余儀なくされていた次の瞬間、田辺が中谷の胸ぐらを掴んだことをきっかけに二人はヒートアップし、相手に殴り掛かろうとする。幸い同じタイミングで周りの人間が止めに入ったことで実際に殴り合いにはならなかったが、ロッカールームは物々しい雰囲気になる。
制止する人間に抵抗しながら罵詈雑言を飛ばす田辺と中谷。その二人をなだめようと必死に声をかける周りの人間。そこにはあったのは、夏の大会に敗れ涙する美しい青春の一ページではなく、ただの激しい罵り合いであった。
そんな醜い争いを少し離れた場所で柿谷は見ていた。この時の柿谷には二つの感情が湧き上がってきていた。
一つ目は、なぜ彼らにはくだらない争いをする余裕があるのだろうかということだった。
この時の柿谷は、敗北という自らが受けた屈辱を消化することに忙しく、他人に対する不満をぶちまける気分には到底なれなかった。だから今日の敗北を忘れ、このタイミングで溜りに溜った日頃の鬱憤をここで吐き出す二人が理解出来なかった。
そして同時に浮かび上がってきたもう一つの感情というのは、もしかしてこの争いの原因は自分にあるのではないだろうかという考えだった。
この騒動の発端は、野村が柿谷に対して謝罪をしたことであるのだが、柿谷はその事実を思い浮かべた訳ではない。そもそも、一、二年VS三年の対立構造そのものの原因が自分にあるのではないかと考えたのだ。
柿谷は入部直後から、自分自身のことを上級生たちがよく思っていないことを理解していた。陰で自分の悪口を上級生たちが言っていることも知っていたし、上級生と顔を合わせれば相手は柿谷への不快感を隠そうともしなかった。
しかし柿谷は意に介さなかった。他人からどう思われるかということに興味がなく、上級生に嫌われても特に不便だと思うこともなかったので、嫌悪感すら抱くこともなく、文字通り何も感じていなかった。上級生たちも自分たちが柿谷の眼中に入っていないことに気づいてか、柿谷をよく思っていないにしても、何か具体的な嫌がらせに走ることはなかった。
とはいえ、陰口や意味もなく不快さを露わにする行為は立派ないじめである。例え柿谷が許容しようとも、柿谷を慕いこの野球部を選んだ同級生や後輩たちは黙っていない。
今の三年なんて、結局妬み嫉みを直接柿谷にぶつける、器の小さい連中だ。だから野球も大して上手くなれないんだ。あんな連中必要ない。柿谷が三年になった時が、本当の勝負年だ・・・!
その圧倒的な能力でエースの座を掴み、バッターとしてもクリーンナップを務める。学業も優秀で、おまけに容姿端麗。これだけの才能を持ちながらも謙虚さとユーモアを持って誰にでも分け隔てなく接して、カリスマ性すら醸し出す。これが周囲の持つ柿谷へのイメージだ。同級生や下級生はこのカリスマ性に魅せられ、逆に上級生の場合はそのカリスマに一方的な拒否感を持った。一、二年は柿谷を認めようとしない三年に敵対心を剝き出しにして、三年はそれに答えるかのように頑なに柿谷の能力を受け入れようとはしない。結果として柿谷という存在そのものが、時間と共に一、二年と三年の間の溝を深める要因となってしまった。
そしてお互いに溜まり続けたフラストレーションが、敗退が決まった夏の県大会準決勝直後のロッカールームで爆発してしまったのだ。
だが言うまでもなく、柿谷はこんなことを望んではない。何より今は、敗北という屈辱に向き合うことで精一杯だと言うのに、やいのやいのと自分の周りで騒がれることは迷惑でしかない。
ドロドロとしながらも熱を帯びた、色で例えるなら静脈血のように赤黒い、敗北という屈辱の感情を二度と味合わないために出来ることは何か。いや、死ぬまで二度と味合わないというのは不可能でだろうが、可能な限り自分から遠ざけるためにはどうすればいいのか。
勝負で敗れる度に、柿谷は考える。そして最終的な結論として努力をするしかないということにたどり着き、勉強や野球において血のにじむような努力を重ね、今の柿谷がある。
しかし今日の柿谷は、もっと単純なことに気が付いた。
負けたくないのなら、勝負の土俵に上がらなければいいのではないか?
柿谷は超が付く負けず嫌いである。敗北を親の仇のように忌み嫌い、自分とは無縁の存在にしたいと考えている。この思考に深い理由はない。何事においても負けると不愉快な気分になるから嫌だという、それだけの理由だ。
だが柿谷は、勝利を上げることによって快感を得たことは一度もない。野球で試合に勝利しても喜ばないのは謙虚なのではなく、喜びという感情が湧いてこないからであった。あるのは負けずに済んだという僅かな安堵感だけ、柿谷にとって重要なのは(勝利)ではなく(敗北をしない)ことなのだ。
この感覚こそが、柿谷が物心ついた時から抱え続けるもやの正体だった。成果を掴んでも、その成果に対して喜びを見いだせない。試合の勝利、レギュラーポジションの獲得、新たな変化球の習得、ホームランをかっ飛ばす・・・野球に限定しても、これらに対して柿谷は達成感や喜びを見出せない。そしてこれは野球だけでなく、勉学やその他あらゆることに共通をしていることである。
つまり柿谷は、何を成し遂げても喜びを感じない人間なのだ。
だが柿谷の周りにいる人間は、そんな事実を知らない。ただでさえ野球部の三年のような柿谷の優秀さを妬む人間がいる中で、別に楽しくないけどやったら出来ちゃった、というのはあまりに角が立つ。柿谷自身他人からの見られ方に興味はないが、むやみに敵を作る程愚かでもなかった。どうせ他人に理解されない感情を吐露する必要はない。
この感覚を抱えながらも、柿谷は野球を続けてきた。今までは見て見ぬふりをすることが出来たからだ。しかし今は、どうしても野球をすることに対して意味を見出すことが出来ない。それは他でもない、高瀬との出会いが原因だった。
あの日の高瀬は柿谷に対して、実に楽しそうな表情を作りながら、自分の好きなBL本の魅力を語った。その表情というのは、柿谷にとってとても鮮烈なものだった。
俺は生まれてからたった一回であっても、あんな何かに夢中になった表情を浮かべたことがあっただろうか。
高瀬と出会ってから、柿谷はそんな自問自答を繰り返すことになる。そして今目の前に広がる光景を見て、自分が心に抱え続けてきたもやは更に増大していき、いよいよ柿谷の視野を完全に奪った。
ただ負けたくないだけだった。秋や春、そして来年の夏にチャンスがあるとか、そういう問題ではない。どんな試合にも負けたくなかった。そして負けて戻ってきたロッカールームで、チームメイトが喧嘩を始めた。その理由が柿谷にあることは明白だった。ただ、それは柿谷に責任があるということと同じ意味ではない。
ただ自由に振る舞いたいだけだった。その自由な振る舞いは先輩後輩関係なく顎で使うようなものではなく、落ち着かないから自分で雑用をしたいとか、その程度のものだった。先輩に喧嘩を売るつもりも、後輩に尊敬されたい訳でもない。ただそれでも、その行動が野球部内部の軋轢を生じさせたことは間違いない。ただ、それは柿谷に罪があるということとイコールではない。
これ以上、自分が野球部にいる意味があるのだろうか。柿谷の中ではもう、結論は出ていた。
自分の行動は、どうも裏面に出る。柿谷はそんなやるせなさを抱いた。先輩が引退して柿谷たちが最上級生になっても、また何かトラブルを生み出すかもしれないという恐怖もある。そのことに気を付けながら、びくびくして、自分のやりたいようにも出来ずにただ野球をする。そんな気分で野球を続けられる程、柿谷には野球への思い入れなどない。
こんな窮屈な思いをするくらいなら、野球部なんて喜んで辞めてやる。
翌日柿谷は、練習前に職員室を訪れ、退部届を提出した。驚きのあまり声を失う顧問に静かに一礼して、そのまま野球部を去った。
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