四話

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四話

 夏休み明け最初の登校日。この日は柿谷にとって受難の日となった。  「おい柿谷、お前野球部辞めたって本当かよ?」  「どうして辞めたんだ!来年には本気で甲子園を狙えたかもしれないのに!」  「もったいないよ柿谷くん、今からでも戻った方がいいよ。」  学校に着いたと同時に大勢の人間に囲まれ、野球部の辞めた理由を問いただされたり、野球部へ戻るように説得をされる柿谷。  やれやれ・・・人気者であることに慣れたつもりだったが、今日はまた一段と周りが騒がしいな。     当然、こんな心の声が柿谷の外側に漏れ出すことはない。  「その件に関してはノーコメントで。どうしても聞きたいなら事務所通して。」  精々、こんな冗談を挟みながら煙に巻こうとする程度で、基本的に柿谷が口を開くことはなかった。  授業が始まろうとしても、喧騒が収まる様子はない。中には、授業そっちのけで柿谷へ話しかけてくる教師すらいる始末で、流石の柿谷も辟易し始めていた。  そんなに野球部を辞めたことがおかしいか。周りの態度は柿谷にとって理解し難いものだった。自分が野球部をやろうが辞めようが、彼ら彼女らには何の関係もないはずだ。なのにそんな人々は、柿谷に向けてどうかしていると言いたげな視線を送り、胸の内に迫ろうとしてくる。  別に全てを打ち明けてしまっても良かった。今までだって好きでやっていた訳ではない、辞める理由がないから続けていたことを、続ける理由がないから辞めたたけだ。たったこれだけのことで説明は終わるのだから、聞かれて答えるくらい大した労ではない。  ただ、この言葉に納得をする人間は本当にいるのだろうか。いや、誰も納得はしないだろう。きっと柿谷の真実を屁理屈だと判断し、ありもしない本当の言葉を引き出そうとさらに躍起になるに違いない。高瀬のように理解を示してくれる人間は稀有な存在だ。多数派にそれを求めるのは難しいだろう。  自分の考えや価値観を理解してもらおうということ自体が、柿谷にとってはおこがましい話なのだ。自分の一番根っこの部分をさらけ出すことに、己が抱える才覚が邪魔をする。そんな悩みや苦悩を吐露しようとも、お前はそんなに出来るのにこれ以上何を望むのだと、相手の感情を逆なでしてそれで終わりだ。  だからこそ、ただ口を閉ざして嵐が過ぎるのを待つしかないのだ。感度のいい返事を貰えないとわかれば、きっと周りも飽き始める。そうなれば、多少なりとも自由に過ごすことも出来るだろう。  しばらくの間柿谷は沈黙と愛想笑いを盾に、襲い掛かって来る嵐から身を守った。そうして一週間もしない間に、柿谷の元から人は次々と去っていった。まさに目論見通り、所詮他人事への興味などこの程度であると柿谷は心の中でほくそ笑んだ。  かくして平穏無事な日々を手にした気でいた柿谷であったが、とある日の放課後、帰宅しようと校門を出たところで、予想していない人物から声をかけられた。  「当てつけか?」  声のする方へ振り返ると、そこには今泉が立っていた。夏の大会準決勝、柿谷に代わって九回のマウンドへ上がり、一つのアウトも取れなかったピッチャーの姿が、そこにはあった。  「当てつけってどういう意味すか、今泉サン。」  「そのままの意味だ。俺たち三年に愛想を尽かしたお前が、俺たちへの当てつけとして野球部を辞めたんじゃないのか?」  呆れ顔でため息を漏らす柿谷。すぐにでもその言いがかりに対して物申したかったが、もし派手な言い争いに発展した場合、校門前という立地はいささか都合が悪い。ただでさえ柿谷が野球部を辞めたこの話で根も葉もない憶測が飛び交っているというのに、先輩と言い争いをしたとなれば火に油を注ぐことになる。  柿谷はひとまず言葉を飲み込み、今泉を学校の裏手にある公園へと誘った。学校の近くであるため、ここでも誰かに見られるかもしれないが、校門前で派手にやり合うよりは幾分ましであろうと判断したためであった。  「今泉サン、なんか飲みます?」  公園に着き、自動販売機の前から今泉へ声をかける柿谷。ベンチに腰掛ける今泉は返事をすることなく、ただ手を組み黙って地面を見つめている。  「コーヒーでいいすっか?コーヒーにしますよ。後でコーヒー飲めないとか言われても知らないっすからね。」  同じ缶コーヒーを二本買った柿谷は、一本を今泉の横に置く。そしてその缶コーヒーを間に挟み、もう一本の缶コーヒーの栓を開けながら、今泉の横に腰掛ける。  「・・・なんか、こうすると仕事の休み時間みたいっすね。もう大人になった気分。」  一切反応のない今泉を横目に、柿谷は缶コーヒーに口をつける。どうやら今泉はくだらない話に付き合うつもりはないらしい。  「・・・早速本題に入りますけど、俺が先輩への当てつけで部活を辞めただなんて、そんなふざけた話ある訳ないじゃないすか。俺は先輩方にそんな陰湿な人間だと思われるような態度を取った覚えもないし、大体先輩方はもう引退して部活にはいないのに、どうして俺が当てつけで部活を辞めるんすか?」  ここで今まで一切柿谷の言葉に反応していなかった今泉が、自分の横に置かれた缶コーヒーに手を伸ばしたかと思うと、栓を開けながらこう呟いた。  「・・・別に俺だって本気で三年への当てつけでお前が部活を辞めたとは思ってない。」  お笑い芸人のようにズッコケ、はしなかったが、柿谷は口をあんぐりと開け、あからさまに拍子抜けの意思を示した。  「いや、当てつけだって言いがかりつけてきたのは他でもないあんたでしょ?なのにそのあんたが、俺も本気では思ってない、とか言い始めるんすか・・・意味わかんないすよ。」  少し興奮した様子の柿谷とは対照的に、静かにコーヒーを飲む今泉は冷静に言葉を返す。  「お前の言う通り、俺たち三年はお前の人間性を多少は理解しているつもりだ。だから三年への当てつけで野球部を辞めるなんて馬鹿げたことをするとは思わない・・・俺たちはな。」  「最後の一言、妙に意味深っすね。」  今泉はちらっと柿谷の方を一瞬向いた後、再び前方の地面に視線を送りながら続きを語る。  「お前が思っている以上に、お前が野球部を辞めたことは大きなニュースになっている。学校内はもちろん、ドラフト候補だともてはやし取材に来ていた連中もお前が退部したと聞いてさぞ驚いているらしく、色んな所で話題になっている。そしてそんな連中の次の興味は、なぜお前が野球部を辞めたか、ということになる。」  「夏休みが明けてから、そんな連中の相手を嫌になるまでしましたよ。」  自虐的に笑う柿谷へ、今泉はさらに続ける。  「お前に直接聞きにいくというのは、言うならば第一段階だ。だがお前は一向に口を開かない。となれば物事は次の段階へと進む。」  「次の段階?」  「本人から直接聞けないのなら、自分たちで推測するしかない。だから状況証拠からお前の退部理由を当てる推理大会が始まるんだよ。でも、他人の都合に口出しをしたい連中の推理なんてろくなもんじゃない。怪我や家庭の金銭的な事情という面白味に欠いたゴシップ性のない推理はすぐに淘汰される。」  「つまり、ゴシップとして面白いと判断された噂の一つに、俺と先輩方の確執があったと。」  「そういうことだ。さっきお前が言ったような、三年はもう引退したから関係ない、なんて正論は噂話を作り出す連中には通用しない。ただ面白いかそうではないか、そこにしか判断基準はない。」  「本当、ろくでもない連中だな・・・」  そんな台詞を吐き捨てた柿谷は、口直しと言わんばかりに一気に缶コーヒーを飲み干す。この時のブラックコーヒーの苦みは、不思議な程爽やかなに感じられた。  「ただ、そんな連中の作り話を全ての人間がろくでもないと言い切れる訳ではない。寧ろ、真に受ける人間が大勢いるからこそ根も葉もない噂話というのは後を絶たない訳だが。」  「まあ正直、今に始まったことでもないんで慣れてますけどね。」  そう言って鼻で笑う柿谷。すると次の瞬間、そんな柿谷の方へ急に体を向けた今泉は、睨みつけるような視線を柿谷へ送る。  「な、なんすか急に。」   たじろぐ柿谷へ、今泉は表情を変えないまま話の本題を切り出す。  「お前はもう噂をされることに慣れ切っているのかもしれないが、俺たち三年はそうじゃない。しかも今回の話は、不甲斐ない三年や疑問の残る采配をした監督に対して失望した柿谷が野球部を去ったという筋書き・・・ここまで明確に悪者扱いされたら、その後俺たち三年にどんな未来が待ち受けているか、お前に想像出来るか?」  段々と興奮していく今泉は、思わず立ち上がり言葉を連ねていく。  「甲子園が見えてきていた夏休み直前は、あんなに応援してくれていたクラスメイトからも、今では腫れ物に触るような扱いを受けている。SNSは現実世界の比じゃない・・・顔も名前もわからないからと高を括った奴らが、俺のアカウントへ誹謗中傷を平気で送ってきやがる・・・百歩譲って準決で打たれたことを責められるならまだしも、お前らのせいで柿谷が野球部からいなくなったんだ、ってメッセージばっかりだ・・・そんなの、俺の知ったことかよ!」  語気を強め、地面を蹴り上げる今泉。そんな今泉を、柿谷はただ黙って見つめるしかなかった。  「なあ柿谷、なぜ野球部を辞めたんだ?確かに公立高校であるうちにはスポーツ推薦の枠はないから、部活を辞めることに問題はないのかもしれない。ただ、お前がお前自身の存在の大きさを理解しているのなら、自分の行動が周りにどんな影響を及ぼすのか、それぐらい想像出来るだろう?お前が野球部にいてくれさえすれば、俺たちが味合わずに済んだ苦労があるんだよ・・・」  ついには涙を流し始める今泉は、その情けない姿で柿谷へ懇願する。  「頼む柿谷、野球部に戻ってくれ。お前のことならきっと一、二年のあいつらだって笑って歓迎するさ・・・頼むよ、柿谷。」  今泉の姿を見ていられなくなった柿谷は、目をつぶって奥歯を食いしばり、慎重に声を発する。  「・・・俺が野球部を辞めたのは、他でもない俺のためです。三年の先輩に迷惑がかけていることは、本当に申し訳ないと思いますが、何を言われても俺は、誰かのために野球部に戻ることはありません・・・ほんとすいません。」  自らの情緒をコントロール出来なくなっている今泉。柿谷の返事を聞いた今は、薄っすら笑みを浮かべている。  「・・・やっぱりお前は正しい人間だ。こんな情けない姿の先輩の頼み事なんて、聞き流した方がいいに決まっている・・・俺たち三年はそんなお前の正しさがどうしても受け入れられなくて、無意味なプライドばかりを肥大させていった。野球の能力だけでなく、常に正しくあり続けるお前を否定し続けることでしか、自分たちの居場所を野球に見つけることが出来なかった。そう言った意味では責められるのも当然、因果応報ってやつなのかもしれないな。」  ようやく冷静さを取り戻しつつあった今泉は、ベンチに置かれた飲みかけの缶コーヒーをつまみ上げた。  「ただ気を付けろよ。お前だ正しくあろうとすることで、必ず弊害は生まれている。今回は俺たち三年だったが、お前にとってより身近な人間に危害が及ぶ可能性もある・・・精々、大人しく野球部にいれば良かったと後悔しないようにな。」  捨て台詞なのか気遣いなのか。どちらとも取れない言葉を残して去っていく後ろ姿を、柿谷はベンチに座ったまま黙って見送った。      柿谷は昔から、自分にまつわる噂話には慣れていた。  あのチームにはとんでもないピッチャーがいるらしい、塾にもいっていないのに模試で全国トップレベルの成績を出した奴がいるらしいなどといういい噂はもちろん、あまりの優秀さに不正を疑われたり、妬み嫉みで中傷されたことも一度や二度ではない。  これらの心無い声にどのように対処をするか。月並みではあるが柿谷は、気にしないという選択をした。  もとから、人にどう見られているか、というものにそこまで興味がなかった柿谷にとって、他人の言葉を受け流すことはそこまで難しいことではなかった。そうして受け流している間に、段々と妬み嫉みの声が耳に入らなくなった。そもそも面と向かって人に悪口を言う人間はほとんどいないため、妬み嫉みの大半は陰口である。となればわざわざ聞き耳を立てるような真似をしなければ、自然と耳に入らなくなるのも当然である。  学業やスポーツ、その他あらゆる分野で圧倒的な才覚を示し、陰口や悪い噂などというダーティープレーも意に介さず、謙虚な姿勢で我が道を進む。こうなってくれば周りももはや柿谷に対して純粋な尊敬の念を抱くようになり、悪く言う者も少なくなる。以上のような好循環によって、柿谷は自らの地位を確立させた。  だが野球部退部騒動により、その地位は危ういものとなりつつあった。  エースとして来年は甲子園も狙える中での退部、それは当然大多数の人間には理解出来ない行動である。直接柿谷に問い詰めても要領を得ない。そうして今泉たち三年生を苦しめている噂話が巻き起こった訳であるが、同時に柿谷に対する一種の恐怖というものが周りの人間には生まれていた。  あらゆる能力に秀でており、それでいて謙虚であり続ける。だが腹の底では何を考えているかわからず、突如として今回の退部のような突飛な行動に出る時がある。そしてその退部の理由は未だ誰も(本人と高瀬以外)知らない。  一体柿谷という人間は、何を考えているのだろう。  これまでも薄々感じていたクラスメイトや同級生にとっての疑問がはっきりとしたものとなり、その疑問が恐怖を駆り立て、柿谷から距離を置く動機ともなった。  こうして今までの黙っていても人が寄ってきていた柿谷の周りからは、人っ子一人いなくなる事態となってしまったのだ。  とは言え、柿谷はそんな状況に焦燥感を覚えるような男ではない。  高瀬の気持ちが少しわかった気がするな。寂しさがない訳じゃないけど、こうして独りで静かにするのも悪くない。  このように孤独をほどほどポジティブに解釈していた柿谷のもとへ、一人の男が近づいてきた。  「か、柿谷・・・部活を辞めて最初のて、テストだが、じゅ、準備は万全なのかな。」  柿谷のもとへやってきた挙動不審の男は、山崎という名前のクラスメイトであった。  「で、でも、今回は俺も相当な準備をしてきている・・・か、簡単には負けないからな。」  この山崎は毎回の定期テストにおいて、柿谷に次ぐ二番手に甘んじている男である。山崎はこの事実を相当意識しており、テストが近くなると毎回宣戦布告にやってくる。  「あー、うん。頑張るわ。」  正直な所、夏休み明けから何かとバタついていた柿谷は、残り一週間を切った定期テストに向けて万全な準備が出来ているとは言い難かった。高瀬同様に優等生思想を持ち合わせている柿谷は、一夜漬けを好まず普段からコツコツと勉強をするタイプである。とは言えやはり、進学校の定期テストで一位の座を守るためいつも通りであれば、直前の追い込みは欠かさない。今回に関しては現状、その追い込みが十二分に出来ているとは言えなかった。  ただそれ以上に気になったのが、山崎の様子である。  目の下には大きなクマが出来ており、頬も瘦せこけてかなり体重を減っているのではないかと窺える。もとから瘦せ型の体型で、はきはきと話す人間ではなかったが、明らかに様子がおかしい。顔全体もやつれた様子で、恐らくかなりの間極端に睡眠時間を削っているのだろう。  「それよりも山崎。そんな様子で大丈夫か?体壊すなよ。」  「ふふ、敵の心配とはよ、余裕だな・・・む、むしろお前は俺が病気にでもなってけ、欠席することを祈った方がいいぜ・・・ふふふ。」  不気味な笑い声とおぼつかない足取りで、山崎は自分の席へと戻っていく。大きな音をたて、滑り込むように着席する山崎に対して、クラス中が奇妙なものを見る視線を送る。  少なくとも、今回のテストで山崎に負けることだけはない。そう確信した柿谷は、マイペースにテスト対策を始めたのであった。  そして一週間後、件の定期テストは始まった。  自分としては物足りない部分もあったものの、一週間である程度仕上げてきた柿谷に対して、始まる前からゾンビのように薄気味悪い唸り声をあげる山崎。当然周りの人間にしてみれば迷惑以外の何物でもない訳だが、今回のテストにかける思いと身体からのSOSが入り混じった鬼神のような山崎の顔を見てしまうと、誰も注意する勇気が湧いてこない。見かねた先生の注意によって何とか声を抑えるようになった山崎であったが、とっくに限界を超えている山崎の存在は、クラス中にテストとは無関係の緊張感をもたらしていた。  山崎を含め無事にテストの回答を終えたさらに一週間後、いよいよテストの返却が始まる。  自分のテスト結果だけを知っても、学年で何番目なのかはわからない。しかし今の時代に、進学校でもテスト結果という個人情報を白昼堂々と張り出すことは憚られる。そのため成績上位者は個別に呼び出され、健闘を称えられると同時に自分の順位のみを伝えられる。一方で、成績が振るわなかった者も同様に呼び出されるが、もっと勉強をするようにと注意されるだけでこちらに順位は伝えられない。  つまりテストに手応えを感じた者は呼び出されるよう、そうでない者は呼び出されぬように祈るという、全く別の願いを持つのであった。  「柿谷、ちょっと来てくれ。」  この呼び出しはテスト返却後最初のHRに行われる。成績優秀にしても不振にしても呼び出されるのは数名であるため、ほとんどの生徒にとっては自習となる訳だが、緊張と興奮、さらにはテストを終えた解放感からまともに自習している生徒などごく一部に限られている。  「柿谷はもうこの呼び出しにも慣れたよな。」  担任の後についてやってきた進路相談室と書かれた無人の教室。その言葉の通り、柿谷にとってこの時間はもう特段緊張するものではなかった。  「さて、単刀直入に言うが・・・今回のテストも柿谷が学年一位だ。おめでとう。」  「ありがとうございます。」  小さく拍手をする担任に、柿谷は小さく頭を下げて答える。  「なんだ、あんまり嬉しそうじゃないな。」  「いや、まあ正直、今回は自分としてあまり納得のいく準備が出来なかったので。もし山崎がおかしくなってなかったら、あいつにまくられていたかもしれません。」  「うーん、点数自体は前回のテストから下がるどころか上がっているけどな・・・ただ柿谷が言うように、山崎は正直心配だ。」  あまり話すこともないのか、担任は柿谷に向けて柿谷自身の話ではなく山崎の話を始める。  「どうせ柿谷も知っているだろから話すが、これまで山崎は常に柿谷に次ぐ二番目の成績を出し続けてきた。だが今回はかなり点数を下げてる。はっきり言って、成績優秀者として取り上げられないレベルまで順位も落としている。まあテスト前から明らかに様子がおかしかったし、そう言った意味では何も不思議ではないのだが・・・」  苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる担任に対して、そんなこと自分に言われてもな、と反応に困る柿谷。  「どうして山崎があそこまで一位にこだわり、そして追い込まれたのか。本人だけじゃなくご両親を含め話を聞いた方がいいかもしれない。幸い、三者面談でお会いした時の山崎の親御さんは優しそうな人だったし、きっと心配されているだろう・・・柿谷?聞いているか。」  珍しくボーっとしていた柿谷は、担任の声によって違う場所へ向かいかけていた気持ちを呼び戻す。  「とにかく、柿谷も山崎のことは気にかけてやってくれ。互いにライバルとして健全に高め合って欲しいからな。」  「はあ・・・」  なんでそんなことをしなければならないのか、という言葉をなんとか飲み込み、適当な相槌でこの場を切り抜ける柿谷。  結局ほとんど柿谷自身の話題もなく、終始山崎の話で終わってしまった訳だが、クラスの戻ってから柿谷が山崎の方へ視線を向けると、山崎は憮然とした様子で頬杖をついている。テスト前に比べるとだいぶ顔色も良くなり、少しは睡眠も確保した様子であったが、それでも危うさというか、精神的に深い傷を負っていることは明らかだった。  気にかけて欲しい。そんな抽象的な依頼で行動を起こす程柿谷はお人好しではない。そもそも柿谷と山崎は仲が良い訳でもなければ、ライバルだと意識したこともない。おまけに目の敵にされている現状では、柿谷が山崎に対して不用意に近づくのは逆効果だろう。  担任の言葉を気に留めることもなく、柿谷はHRが終わるまでの時間を自分の席で静かに時間を過ごした。  その日の放課後、柿谷は掃除当番やクラスの提出物を代表して職員室まで運ぶ仕事を任されるなど、珍しく慌ただしい時間を過ごしていた。一通りの要件を済ませ、ようやく帰れると自分の教室に戻った時には、既に誰も残っていない。  数秒間教室の後ろから誰もいない教室を眺め、部活をやっていた時には味わったことがない別種類の疲労感にふとひと息ついた。西日差す教室の雰囲気に酔いしれるのもほどほどに、柿谷はさっさと帰ろうとカバンを取りに自分の席へ向かう。そしてそこから近い前のドアから教室を出ようとしたが、既に施錠されていて外に出られない。  多少違和感は残るが、外側から鍵で施錠をする前の扉を開ける手段を持ち合わせてはいないためどうしようもない。仕方なしに後ろの扉から出ようとする柿谷であったが、後ろの扉の前にはそこを通さんとする山崎の姿があった。  「どうした山崎、忘れ物か?」  平静を装う柿谷であったが、瞳孔を開いてこちらと焦点を合わせようとしない山崎を見て、じんわりと脂汗をかき始めていた。  「・・・」  これはやばい。不気味な雰囲気のまま返事をしない山崎を見て生命の危機すら感じ取った柿谷は、出来る限り山崎を刺激しないよう、そしてなるべく距離を置くことを心掛けた。  「そこ、通してくれよ。俺今から帰るからさ。」  「どうしてだ。」  山崎の脈絡のない切り出しに、柿谷は余計に不安の募らせる。  「俺はあんなに努力をしたんだ・・・前回の定期テストが終わってから毎日十時間以上勉強をして、テスト一か月前からは寝る間も惜しんで勉強をした・・・なのに、なのにどうしてお前に勝てない・・・」  「うーん、睡眠は大事だと思うけどね。俺は。」  どうせ何を言っても無駄だと考えた柿谷は、相手を刺激しかねない無駄口を叩く。この行為は、口を動かしいざという時のために自分を落ち着かせるための判断である。案の定、柿谷の言葉が山崎に届いている様子はない。  「俺はこのテストに全てを賭けた・・・お前に勝つために全てを犠牲にした・・・それでも俺はお前に勝てない。何も犠牲にした様子がないお前に勝てない・・・どうしてなんだ・・・」  「何かを犠牲にすればいいってもんでもないからねえ・・・」  じりじりと少しずつ距離を詰めようと近づく山崎に対して、同じ分だけ後ずさりをする柿谷。  「お前は何が楽しくてこんなことをするんだ?野球があって、顔も良くて、それ以上何が欲しいというんだ。勉強しかない俺からその名誉すら奪い取って嬉しいか!」  「そんなに怒らないでよ・・・俺は俺なりに頑張ってるだけで、山崎を傷つけるつもりなんてないんだから。」  「医者の家庭に生まれ、学業優秀であることが義務だった。でも俺は凡人だった。兄と弟が通う私学の受験に落ちて両親にも見放された。それでこんな平々凡々とした高校に来てしまったが、それでもテストで一位になれば、少しは見返せると思った・・・でも駄目だ。どれだけ努力をしてもお前に勝てない。」  「そんな、急に自分語り始められても・・・」  次の瞬間、後ずさりしていた柿谷は教室の壁に背中をぶつける。その衝撃で一瞬ひるんだ隙を狙って、山崎は胸元から取り出したカッターナイフをもって一気に柿谷へ突っ込む。  「うわっ、ちょっ、あぶねえよ馬鹿!!!なに物騒なもん出してんだよ!」  間一髪、横っ飛びで刃を避ける柿谷。  「もう俺は駄目なんだ・・・圧倒的な才能の前には、俺みたいな凡人は無力だ・・・だから、せめて、こうやって一矢報いることだけでも・・・」  泣きそうな顔で手を震わせる山崎であったが、攻撃を止めようとはしない。  「落ち着けって!こんなことしてもしょうがないだろ!」  「うるさい!お前に目に物を見せるには、こうするしかないんだっ!」  しばらく、互いに睨み合う膠着状態が続く。教室前方の窓付近にいる柿谷は、教室後方の廊下側にある扉を目指し脱出を試みる。対する山崎は柿谷の席がある教室前方廊下側に位置しており、柿谷よりも後方の扉との直線距離が近い。柿谷の動きを読めば、山崎は容易に刃を向けることが出来るだろう。しかし運動能力では柿谷が大きく上回っているため、山崎が迂闊に動けばその隙をついて逃げることも難しくない。そんな探り合いが続き、動くに動けないまま十分近い時間が過ぎていく。  そんな時、この膠着状態を破壊するある出来事が起こった。  「柿谷くん、流石にもう帰ったよね。」  突如としてやってきた高瀬が、後ろの扉を開けたのである。  「・・・え?」  窓際に立つ柿谷と、その視線の先にいるカッターナイフを持った山崎の姿を見た高瀬は驚きで身を固め、手に持っていた英語の課題を地面に落とす。また山崎も予想していなかった出来事に動揺し、視線を柿谷から外した。  その一瞬の隙を狙った柿谷は机の上を渡るように走り、最短距離で後ろの扉まで向かい、勢いそのまま高瀬の右腕を掴み、引っ張るようにして走り出した。  「え?え?」  動揺を隠せない高瀬の腕を掴んだまま、柿谷は昇降口へと向かう。ここまで来ると他の生徒や教師の姿もちらほら見えるようになり、ひと安心とばかりに走る速度をゆるめる柿谷。  「まっ、待ってよ・・・い、一体、何が、あったの?」  「いやー、まあ、色々あってさ・・・」  こんな態度ではぐらかせる訳もなく、柿谷は帰り道に長々と高瀬から事情聴取を受けるのであった。                                                           
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