ひつじが一匹

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 話が長くなると中々解放されなくなるため、早々に逃げようと俺はゆっくり後ずさる。 「ねぇ先生。どうしても不安で眠れない時、どうしたらいいのかしら」  ああ、これは話が長くなる前振りだ。 「う、うーん……。眠剤を他のものに検討しましょうか。上の医師に相談しますよ」  考えるフリなんて下手くそな芝居をしつつ、俺は病室を後にした。  その後も仮眠室に戻るや否や、転倒した患者の対応で呼ばれ、まとまった睡眠はせいぜい二時間しか取れなかった。  しかし楓さんに会えるという期待だけで、当直明けの疲れ切ったはずの身体は元気を取り戻す。  ふと、『不安で眠れない』と言っていた石川さんの言葉を思い出すが、深く考えることはしなかった。 「えっ、楓さん早退しちゃったんですか!?」  自分でも驚くくらいの大声がスタッフルームに響き渡った。  ここは大学時代からお世話になっているアルバイト先だ。  とある羊の人気キャラクターのテーマパーク。その医務室スタッフとして月に数回働いている。  大学生の頃はただのアルバイト、今は医者という肩書きが加わったのだが、大して時給が良くなった訳ではない。  それでもここのアルバイトを辞めない理由はただ一つ、楓さんに会えるからだ。  久しぶりに会えると思っていた俺は、ショックのあまり項垂れる。 「浅山くん、残念ね。今日なんて当直明けなんでしょう?」  その場にいたバイト仲間から憐れみの声がかかる。 「そうっすよ。ダメだ、もう俺には今日を乗り切る気力がない……」 「あはは。元気のない浅山なんて初めて見た。楓さんがいないと使い物にならないな」  もうなんとでも言え。  そして結局、使い物にならなかった俺はバイト仲間たちから時給泥棒と非難され続けた。  ようやくバイトが終わった午後八時。  俺はスーパーで軽く買い物を済ませ、急いで楓さんの家に向かった。  インターホンを鳴らすと、しばらくしてドアが開かれる。  そこには眠そうに目を擦りながらヨレヨレの部屋着を着た楓さんの姿があった。 「起こしちゃったみたいですみません」 「いや、起きてたよ。わざわざありがとな」  ただでさえ男性の割に華奢で儚げな印象があるにも関わらず、体調を崩している楓さんはより一層弱々しく見えた。  それでも彼は十分に魅力的で、俺は疲れた身体が癒されていくのを感じる。
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