ひつじが一匹

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「うちで看取りが濃厚か。様子見てせめて外泊させてあげたいけど、とりあえず今日にでもDNR取って、あとは症状のコントロールを……」  先輩医師たちが治療方針を定めていく。  DNRを取るとは、つまり「死期が近いので急変のリスクが高いです。その時は心臓が止まっても蘇生はしません。いいですね?」という同意を得ることだ。  妥当な判断だろう。  人は皆死ぬときは苦しまずに安らかに逝きたいと思うものだ。  俺は黙々と石川さんの治療方針をカルテへ記録していった。  その日の夕方、石川さんの病室には旦那さんが来ていた。 「あら浅山先生、今日も男前ね。あ、今の人はイケメンっていうのかしら?」  いつもの調子に安心する。旦那さんもにこやかに挨拶をしてくれた。  だが今日は主治医からDNRの話をされたはずだ。いよいよであることを痛感してショックを受ける患者は多い。    彼女は、今日は点滴の針を入れ直すのに何回も失敗されたと愚痴をこぼしながら、だんだんと険しい表情になる。 「先生、……お迎えは今日なのかしら?」  すっかり黄色くなった顔が余計に悲哀感を際立たせる。  旦那さんが「そんな弱気なこと言うなよ」と、彼女の両手を強く握る。  いつものお喋りモードにはならなそうな、暗い視線。  俺は何も気の利いたことを言えなかった。    大学時代からあのシープパークで働いているのに、俺は楓さんのようなホスピタリティは全く身に付かなかった。  もちろんテーマパークに来る客と、病院にいる患者では対応は全く違う。  だが何となく、本質は同じだと思っていた。だからこそ、接客のアルバイトに興味があったのだ。    考えを振り絞って出た言葉は「また来ますね」という便利な常套句だけだった。  スタッフステーションに寄ると、同期の看護師である木下が大きな欠伸をしながらカルテを見ていた。  それをからかうように彼女に話しかける。 「ずいぶんでかい口だな」 「げ、見られてた」 「これから夜勤?」  木下は「そうよ」と言いながら、またもや大きな口を開ける。  「今月は夜勤しかしてないから、もうずっと眠くて」 「夜勤好きなのか?」 「いや、車買っちゃったからさ、稼がないとなのよ」 「金のためか」  木下は「何当たり前なこと言っているんだ」という目で俺を見る。
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