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ひつじが一匹
深夜の当直帯。グッと眠気を堪え、俺は愛しい人の画像を眺める。
この勤務が終わったら二週間ぶりに楓さんに会えるんだ。
ようやく読み終わった医学論文を下敷きにして、だらんと机に突っ伏す。
何事もなくこの勤務が終わることを願いつつも、早速胸ポケットのPHSからコールが鳴り響いた。
「はい、浅山です」
『あ、先生、今お時間大丈夫ですか?』
病棟の看護師からだ。
気になる患者の相談事は、基本的に下級の医師からコールするのが暗黙のルールとなっている。
浅山大地はこの病院の二年目の研修医だ。
当直の医師は他にもいるが、もちろん自分が一番下の医師であるため、まずは全てこのPHSに繋がる。つまり、コールのない当直帯など、基本的にありえない。
『石川さんなんですが、寝る前から微熱があって、今も活気がないのでバイタル測ったんですが……』
石川さんとは、よく入退院を繰り返している癌患者である。
とにかく心配性で、「夫は一人じゃ何もできないから」と言っていつも入院を渋るため、毎回時間をかけて説得している。彼女と主治医とのやり取りは、いつもコントにしか見えない。
俺は重い腰を持ち上げパソコンの前に座った。
ディスプレイの光に目が眩むのを堪え、電子カルテで石川さんのバイタルの経過をチェックする。
「あー、確かに熱も高いし、黄疸も悪化しているみたいで気になりますね。今、診に行きます」
画面の中でにこやかに笑う楓さんに別れを告げ、何度目かわからない欠伸をしながら病棟へ向かった。
「あら、今日の夜は浅山先生なのね」
石川さんはいつもの調子で病室に入って来た自分に挨拶するが、やはりどこか怠そうだ。
「石川さん、調子悪そうって聞いて来たんですよ」
「そうなのよ、夜も眠れなくて。いよいよお迎えってことかしら」
「何言ってるんですか。また元気になって旦那さんのところに帰らないと」
こうやってお迎えがどうとか言うのはいつものことだ。適当にあしらい採血の準備をする。
「最近血液データ取ってなかったんで、取らせてくださいね」
手際良く採血物品を周りにセットし、石川さんの血管を探る。
脱水ぎみの老人の血管はあまり弾力がないのだが、俺にとってはなんて事なかった。
「終わりましたよ」
「やっぱり先生は採血が上手ね。私、いつも三回は失敗されちゃうの」
「はは、そうですか」
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