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36 「雪乃ちゃんっ!雪乃ちゃんっ!」 瞼が閉じて真っ暗になる寸前、燕さんが青ざめた顔で俺を呼ぶのが聞こえた。 腕の中は温かくて、フワフワと意識が飛ぶのを感じた。 夢を見た。 庵司と出会った日 庵司が俺の名前を呼んだ瞬間 庵司の髪の色 庵司が吸うタバコの香り 庵司が 少年みたいに笑う顔 悪戯に 悪戯に 俺を苦しめて どこへ行くんだよ。 甘えん坊で寂しがり屋の庵司。 一人で どこへ行くんだよ。 鼻先を掠めるコーヒーの香りに瞼がピクリと揺れた。 どうしてだか酷い頭痛で目が覚める。 見た事のない寝室のベッド。 俺はフカフカの布団をめくり、部屋を出た。  そこは鮮明に見覚えのあるリビング。 温かみのあるブラウンのフローリング、ソファー、テーブル…掛け時計… 倒れる前に否定した光景だ。 カウンターキッチンから燕さんが顔を出す。 「飲むか?」 俺は小さく首を左右に振ってソファーにドサっと身体を沈めた。 コーヒーを片手に隣に座る燕さん。 俺は膝を抱えた。 「飯…食ってる時ですか?」 部屋にある自分の荷物を見つめながら呟いた。 「…あぁ…夜逃げ屋みたいな便利な連中が世の中には居るんだよ。瞬間移動みたいに…全部ゴッソリ…無かった事に出来る」 「俺…戻ります。」 燕さんが傾けていたカップを止めた。 「庵司…まだ怪我治ってないし…俺が居ないとダメなんですよ。掃除も料理も嫌いなんですよ?本当…顔しか取り柄ないんだから…俺が居なくちゃ」 「雪乃ちゃんっ!!」 燕さんの大きな声で肩が飛び上がる。 「な、なんですか…邪魔したって…ダメですよ…俺は…あの人が居たから…だから人生に色がついたんだよっ!」 「雪乃ちゃん、もう…居ないんだ。庵司はもう…」 「居ない?居ないじゃ困るんだよっ!!俺がっ!!俺が今までっ!!どんなに孤独だったか!誰にも何も言えずっ!偽ってっ!偽ってっ!…庵司が居たから…自由になれたんだ。庵司を…愛してるんです…返して…庵司を…お願いですっ!!燕さんっ!!返…してぇ…ぅぐっ…どうしてっ!!どうしてなんだよぉっ!ぅ…ぅゔっ…返してぇ…俺の…俺の庵司」 走馬灯のように 過去が頭の中をグルグル回った。 人に理解されない、人に言えない恋愛対象に苦しみ、自分の事なのに、本当の部分なんて、一つも無かった。何も悪い事をしていないのに、自分を隠す事が当然で、自分は異常者だと思わざるを得なかった。 だけど…庵司は俺を苦しめるくせに、俺に愛する事を教えてくれた。 猫背の寂しそうな背中と、咥えタバコをしながら絡みつく腕…カーテンの隙間から見える月明かりにキラキラ光るブロンドの髪。 海で聞いた 愛してるって呟いた声。 俺は泣き崩れて、燕さんを困らせた。 意識が薄れては、燕さんの膝枕で目を覚ます。 そんな事を繰り返していたら、榊さんが燕さんに手渡していた白い封筒が俺に手渡された。 「これは雪乃ちゃん宛。言われた日数は預かっておくつもりだったんだけど、雪乃ちゃんもう限界だから…」 封筒を持つ手に力が入った。 「じゃ、俺、帰るけど…何かあったら連絡しろよ」 そう言って、燕さんは部屋を静かに出て行った。
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