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「雪乃ちゃんっ!雪乃ちゃんっ!」
瞼が閉じて真っ暗になる寸前、燕さんが青ざめた顔で俺を呼ぶのが聞こえた。
腕の中は温かくて、フワフワと意識が飛ぶのを感じた。
夢を見た。
庵司と出会った日
庵司が俺の名前を呼んだ瞬間
庵司の髪の色
庵司が吸うタバコの香り
庵司が
少年みたいに笑う顔
悪戯に
悪戯に
俺を苦しめて
どこへ行くんだよ。
甘えん坊で寂しがり屋の庵司。
一人で
どこへ行くんだよ。
鼻先を掠めるコーヒーの香りに瞼がピクリと揺れた。
どうしてだか酷い頭痛で目が覚める。
見た事のない寝室のベッド。
俺はフカフカの布団をめくり、部屋を出た。
そこは鮮明に見覚えのあるリビング。
温かみのあるブラウンのフローリング、ソファー、テーブル…掛け時計…
倒れる前に否定した光景だ。
カウンターキッチンから燕さんが顔を出す。
「飲むか?」
俺は小さく首を左右に振ってソファーにドサっと身体を沈めた。
コーヒーを片手に隣に座る燕さん。
俺は膝を抱えた。
「飯…食ってる時ですか?」
部屋にある自分の荷物を見つめながら呟いた。
「…あぁ…夜逃げ屋みたいな便利な連中が世の中には居るんだよ。瞬間移動みたいに…全部ゴッソリ…無かった事に出来る」
「俺…戻ります。」
燕さんが傾けていたカップを止めた。
「庵司…まだ怪我治ってないし…俺が居ないとダメなんですよ。掃除も料理も嫌いなんですよ?本当…顔しか取り柄ないんだから…俺が居なくちゃ」
「雪乃ちゃんっ!!」
燕さんの大きな声で肩が飛び上がる。
「な、なんですか…邪魔したって…ダメですよ…俺は…あの人が居たから…だから人生に色がついたんだよっ!」
「雪乃ちゃん、もう…居ないんだ。庵司はもう…」
「居ない?居ないじゃ困るんだよっ!!俺がっ!!俺が今までっ!!どんなに孤独だったか!誰にも何も言えずっ!偽ってっ!偽ってっ!…庵司が居たから…自由になれたんだ。庵司を…愛してるんです…返して…庵司を…お願いですっ!!燕さんっ!!返…してぇ…ぅぐっ…どうしてっ!!どうしてなんだよぉっ!ぅ…ぅゔっ…返してぇ…俺の…俺の庵司」
走馬灯のように
過去が頭の中をグルグル回った。
人に理解されない、人に言えない恋愛対象に苦しみ、自分の事なのに、本当の部分なんて、一つも無かった。何も悪い事をしていないのに、自分を隠す事が当然で、自分は異常者だと思わざるを得なかった。
だけど…庵司は俺を苦しめるくせに、俺に愛する事を教えてくれた。
猫背の寂しそうな背中と、咥えタバコをしながら絡みつく腕…カーテンの隙間から見える月明かりにキラキラ光るブロンドの髪。
海で聞いた
愛してるって呟いた声。
俺は泣き崩れて、燕さんを困らせた。
意識が薄れては、燕さんの膝枕で目を覚ます。
そんな事を繰り返していたら、榊さんが燕さんに手渡していた白い封筒が俺に手渡された。
「これは雪乃ちゃん宛。言われた日数は預かっておくつもりだったんだけど、雪乃ちゃんもう限界だから…」
封筒を持つ手に力が入った。
「じゃ、俺、帰るけど…何かあったら連絡しろよ」
そう言って、燕さんは部屋を静かに出て行った。
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