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その人は、好きになってはいけない人だった。
もう戻れない。
しっとりと濡れた唇を離しながら、やってしまった、と思ったけれどもう遅い。ジントニックの香り。彼の、好きなお酒。
至近距離にあるのに、薄暗がりのせいにして彼の表情を見ることが出来なかった。
「……」
なんで、とか、どうして、とか。その言葉を紡ぐのが怖かった。空になったチューハイの缶やジントニックの瓶が背の低いテーブルの上に並ぶ。お酒のせい。きっと、そうだ。
「……サラミ、食べちゃいなよ」
なんでもなかった風に笑って見せた。何もなかった事にしよう。…したい。明らかにしなければ、きっとセーフだ。大丈夫、まだ戻れる。
テーブルの上の白い平皿の上には食べかけのサラミとチーズが数枚。チーズをひょいと指で詰まんで食べた。彼が、サラミの方が好きなのを知っている。
「………今日、泊まってく?」
「……んなわけないじゃん。帰るよ。ばーか」
それ以上は誤魔化しが効かない。まるで欲情するような、或いはアルコールの為に潤んだ瞳で見詰められ、私は堪らずに席を立つ。
二人っきりで。宅飲み。
なんも起こらない……と思ってた。だって、私達、トモダチだから。僅かな期待はいつも失望と共にあるのだ。だって、彼には常に彼女がいた。
大学生になっても染めなかった長い黒髪を掻き上げて、出しっぱなしにしていたスマホをハンドバッグに仕舞い込む。
「……送ってく」
「いいよ」
「危ないじゃん。送ってく」
さっきの口付けはそれとはかなりかけ離れていたくせ、彼は、紳士的な声音でしっかりと告げた。そうなると、私は否定的な台詞を紡ぐことが出来ない。「……ありがとう」と、やっぱり折れてしまう。
私って、貴方の何なの?
いっそ、訊いてしまいたかった。
「トモダチじゃん」
返ってくる言葉を予想するのは容易い。
私は、中学一年生の時から燻っているこの感情を、遂に『過去のモノ』にすることが出来なかった。
中学三年間、常に傍に居たのは彼だ。
だけど私達は、付き合っていた訳ではない。友人だ。……男女の友情なんて果たして、本当に存在するのだろうか?私は、その問いに「No」と答えざるを得ない。彼のことが、ずっと好きだった。
二人で玄関に迎い、慣れないヒールの高い靴を履く。化粧もいつもより念入りにした。服装にも気合いをいれた。ふわりと裾の揺れるロングスカート。彼はこんな服装が好きだっただろうか。そんなことに、姿見の前で一時間近く頭を悩ませた。
憧れの、宅飲み。二人っきり。密室。
私達は大学生になってそれぞれ県外の大学に通っていたのに、長期休暇なんかで地元に帰った時には必ず、落ち会っては飲んでいた。宅飲みは今日が初めて。
高校から別々のところに通っていたくせ、やっぱりその縁は途切れることはなかった。
彼は中学一年の冬から、彼女を途切らせた事がない。取っ替え引っ替え。長くて二年、短いと、二週間。それだけ聞くととんだプレイボーイを想像することだろう。残念ながら、彼の容姿は特別、整っていると言うわけでもない。
でも、モテるのはよくわかる。私も、彼のことを好きになった女子の内の一人だから……。
カツカツと、閑な暗闇の中に私の足音が響く。
「それ、走れるの?」
街灯でぼんやりと輪郭の見える彼が、恐らくは苦笑しながら訊いてくる。
「その気になればね」
視線を少しだけ上げると、彼の耳元でピアスが光っていた。ピアスなんて、開けるとは思わなかったな。
(私も開けようか。半分こ、なんて。ね)
彼と半分こずつ付けるピアスに憧れた。バカみたい。彼女でもないのに。知らず触ってしまっていた自分の耳朶では、お気に入りのイヤリングが揺れている。
ホテル何処とったの?
駅前の。
ああ、あれね。一階にコンビニ入ってるとこ。
そんな他愛もない会話。もう、先程の口付けのことなんて忘れてしまっているかのようだった。
彼は決まって、車道側を歩く。横を歩く私との距離は、只のトモダチと言うには近過ぎるし、それでも肌が触れ合ったことがないこの距離は、やっぱり、恋人と言うには遠過ぎた。
暗がりの道を抜けて、車通りの多い道に出る。行き交う車達がヘッドライトで私達を照らしては通り過ぎた。もう少しで夜の十一時になるが、まばらでも、ポツリポツリと人の姿がある。
「まさか、本当に会いに来てくれるなんてね」
「だって、約束したじゃん。ま、観光も兼ねてだけど」
「うん。でも、嬉しーよ。ありがと。ほんと、ウチに泊まっても良かったのに」
「やだよ。彼女にバレたりしたら修羅場じゃん。浮気とか疑われて、目の敵にされるの御免なんだけど。女の嫉妬、マジで大変なんだから」
彼女、実家から通ってるから平気だよ。ーーーなんて笑う。何が平気なんだろうか?
彼は、そんなところがある。ほんと、クズだ。
私の友人と付き合ったことがあるけれど、その間も私との約束や時間を優先した。そんなところもクズなら、たった二週間で「なんかめんどくさい」と言って彼女に対して素っ気なくなり、遂には別れた。そんなところもクズ。今も、彼女が居ても女友達と二人きりで宅飲みする。抵抗とか無い。ほんと、変わらない。とんでもないクズだ。
一方で、私も大概のクズだった。でも、救いがあるのは、私には自覚があると言うことだ。
あの時私は、友人よりも彼をとった。逆恨みしてきた二週間彼女との縁を切り、たった一人の“彼”と共に居ることを選んだ。友人なら沢山いるけど、彼は彼だけだったから。
私は、絶対に彼に告白なんてしない。この気持ちも、悟られてはいけない。
『友人であること』こそ、いつまでも彼の傍に居られる為の必須条件なのだ。
だって、友情には終わりがない。
彼は熱しやすく、冷めやすい。飽きた、面倒だ、と振られていった沢山の元カノ達を知っていた。
それまでどんなに、お熱でも。パタリと。手の平を返したように冷たくなる。当然、彼女の方は気が気ではない。不安になる程に、彼にとっては面倒臭いやり取りが増える。その、悪循環。
今回の彼女は長かった。
或いは、彼は、会わない間に少しだけ変わってしまったのかもしれない。やっと、運命の誰かに巡り会ってしまったのかもしれない…。
結婚だっていつかするだろう。誰かと。それが、今の彼女でもおかしいことではない。
ズキリ、と確かに、胸が痛んだ。
けれど勿論、私はそれでもこの想いを告げたりはしない。彼が何処かの誰かと結婚したその後も、いつまでも彼と一緒にお酒を飲んで居られる為の条件なのだから。
チェックインだけ済ませたホテルの一階にある、コンビニの前に着いた。けれど、コンビニに入るでもフロントのある二階の階段を上がるでもなく、私達は示し合わせたように立ち止まる。
「俺さ、お前と付き合ってれば良かったわ」
突然。
まるで、「今日の晩御飯、ピザにしたら良かったわ」なんて言う風な気軽さで、彼は言う。
「最近、彼女、なんか面倒臭いんだよね」
その言葉を聞いて、ホッとした。つい、口の端が歪みそうになってしまって、誤魔化すように「冗談。願い下げなんだけど、アンタみたいなクズ」と笑って見せた。
ああ、お気の毒様。
会ったこともない彼の彼女のことを想う。
彼が「面倒臭い」と言い始めて、次の週まで持った彼女は居ない。きっと、来週には別の女と歩いていることだろう。
「俺、そんなダメ?付き合えない感じ?」
「私だったら、付き合ってる人がいるのに他の女と二人で宅飲みするような男、マジで無理」
「へーぇ?」
このやりとりの何処にも、私に対する彼からの恋心が見付けられなくて、やっぱり私は『トモダチ』なんだなぁと、落胆するようなホッとするような気持ちだった。
「綺麗になったから。お前」
「……」
それでも、じっと、瞳の奥にある本心を覗き込むような目をされて、不覚にも胸が高鳴る。熱っぽい眼差し。
「………あのさ、ホテル、俺も泊まっていいかな?」
「良いわけないじゃん。バカじゃん」
コンビニの入り口で煙草を吸っている人からの副流煙に、眉をしかめた。
先程のキスと一緒。
好奇心以上の、意味なんて無い。
身体を重ねてしまえば、おしまいだ。ポイだ。ーーー私は『トモダチ』だけど、『異性』だから、そう言うところには十分に気を付けなければいけない。絶対に、歴代彼女達と肩を並べたりなんかしないのだ。
私って、貴方のなんなの?
改めてその心に問いたくなったタイミングで、「この近くにオススメの店あるんだけど、行かない?」なんて提案。
相変わらず、行き交う車達が私達を照らしては通り過ぎる。時刻は恐らく、十一時半を軽く越している。
「………いいよ」
ほら、でも。私に断れるはずがない。
頷いてまた肩を並べて歩いた先には、凄く感じの良いお洒落なバーがあった。
アンティーク調の店内。静かなBGM。バーテンはスーツを着ていない。テーブル席には二人以上の客。カウンターにはお一人様がお酒を嗜む。
あっ、好きだな。と、思った。
「お前、好きだろ?こうゆうとこ」
「うん。……好き」
彼が。
私の為に連れてきてくれたことがわかった。
私達は適当に、空いていたテーブル席に向かう。
「何にする?カシオレ?」
彼はメニュー表を私に手渡しながら訊く。
外で飲む時、私は大体一番最初にカシスオレンジを頼む。
「そっちは?ジントニック?」
「んーん。今は、カルーアな気分」
彼はジントニックが好きだったが、だからと言って、外で必ず頼むと言うわけでもなかった。それが、私達の決定的な違いだと思う。
「いいね。私もカルーアにしよう」
すみません、とカルーアミルクを二つ注文する様はすっかり慣れきっていて、スムーズでカッコ良かった。ああ、好きだな。ずっと、傍に居たい。或いは、このポジションでいることこそ、本当の意味で『彼の特別』だと思っている。
「ここ、パスタが美味しいんだよ」
「へぇー?流石に、今は入んないかなぁ。お酒だけ飲もっかな」
「だね」
訪れた沈黙。
私は元々、あまり喋る方の人間ではない。沈黙さえも素敵な雰囲気に変えるこのバーでなければ、この間を『気まずい』と私は表現したことだろう。
何の話、しようかな…。
先の宅飲みで、近況や思い出話、共通の友人の今についてーーー色んな話をした。私の方は、すっかりネタ切れだった。
彼の方もどうやらそうらしく、頼んだカルーアミルクが来るまで無言だった。
(………アホらし)
届くなり、彼と同時に口を付けたカルーアは甘ったるさを残して喉の奥へと流れていく。
目の前で何も言葉を紡がなくなった彼のことを盗み見る。
もう、どうして好きになったかとが、何処が好きかとか、覚えてない。けど、残念なことに、未だに好きだった。
彼ほどではないが、私にも『元カレ』が何人か居た。
彼らのことを好きでいたことはない。本当に申し訳ないのだが、『彼が私のことを気にしてくれるかも』『彼のことを忘れて、この人に夢中になれるかも』そんな淡い期待を抱いて付き合っていた。結局、どちらも叶うことは無かった。
洋楽のBGMは、話題に取り上げるには頼り無い。
辺りををこっそりと見回してみたが、「ほんと、感じ良いね」なんてそんな言葉しか口から出て来なかった。
彼は、ーーーどうしたらこの後、私と『そういう雰囲気』になるのかを考えているのかもしれない。
願い下げだよ、ばぁーか。
心の中で、先手を打って悪態を付く。
ほんと、こんなクズ。なんで好きになったんだろ?きっかけとかあったかな?
長い間燻っていたこの恋心は、すっかり歪な形になって胸に巣食う。ここまで来ると、最早、病気だ。
一人、彼と出会った日の記憶をなぞった。ーーーあの頃は、無邪気で可愛げがあったな。
すっかり、『男』になっちゃって。
『女なんて、穴が開いてたら良いんだよ』。ーーーいつかの、誰かの小説の中の台詞を思い出す。
最低。と思ったけど、彼も多分、そんな類いの人間だった。
ーーーー…或いは、もしかしたら、『貴方を好き』というこの感情に、私はずっと、恋をしているのかもしれない。
ー完ー
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