お母さんと呼べなくて

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私の母は私が8歳の時に病気で亡くなった。 優しくて、料理上手で美人な母。 私は母が大好きだった。 母が死んでからは、父と二人きり、たくましく生きてきた。 母みたいに料理上手になりたくて、一生懸命料理の練習をした。 小学校3年生の頃には、毎日父のお弁当を作っていた。 私はよく、「お母さんが居ないから可哀想」と友達から言われたけど、別に寂しくはなかった。 だって、私には父が居るし。 大好きな母も、いつでも私を見守ってくれている。 たとえ、二度と会えないとしても・・・。 そんなある日。 私が小学校5年生の時に、あの女が我が家にやって来た。 「有紗、彼女が今日から有紗のお母さんになる人だよ。」 父はそういって、若くて色白な女性を紹介した。 「初めまして、有紗ちゃん。これからよろしくね。」 私は不思議だった。 突然今日から“新しいお母さん”だと言われても信じられなかった。 だって、私の母はたった一人だけだから。 その女が来てから我が家の生活はガラリと変わった。 毎日父にお弁当を作る役割が、私からその女に変わった。 今までやっていた掃除も洗濯もしなくていいことになった。 私はその女のことを、家政婦さんだと思うことにした。 だから、彼女の事を名前で呼んだ。 “真佐子さん”と。 父には「どうしてお母さんと呼ばないんだ!?」と怒られた。 だけど、呼べる訳がない。 だって、私には死んだ母だけが、本当の母なのだから。 そんな状況は私が高校生になっても変わらなかった。 私は変わらずその女のことを、真佐子さんと呼んでいたし、彼女の作るお弁当も一切口を付けなかった。 それなのに、彼女は毎日私にお弁当を作った。 玉子焼とかウインナーとか、おかずをたくさん詰めたお弁当を毎日懲りずに作っていた。 私はそんな彼女が嫌いだったけど、どうしてそんなに毎日頑張れるのか不思議でならなかった。 そして、私は大学生になり、大学の近くにアパートを借りた。 それなのにまだ、彼女は月に一度ほど、手作りのおかずを詰めては私のアパートを訪ねて来た。 私はそれを全て流しに捨てていた。 私は彼女の作るお弁当を一度も食べることはなかった。 それなのに、しつこく何度も何度もアパートを訪ねてくる。 「今日は有紗ちゃんの好きなもの詰めたから。」 「夏は暑いから、日持ちするもの持ってきたよ。」 毎月のように訪問しては、お弁当を置いて行った。 私は理解できなかった。 何の血のつながりのない、赤の他人にここまでする理由が分からなかった。 それからさらに月日が経ち、私は27歳になった。 そして、職場で知り合った男性と結婚し、翌年に第一子を出産した。 そのときも彼女は私のところに来て、嬉しそうに孫を抱いていた。 そして、自分が親になり、少しだけ彼女にしてきたことが申し訳なく感じてきた。 しかし、今更“お母さん”とは呼べずにいた。 それからしばらく経った頃、彼女が入院したと聞き、私は病院へ向かった。 詳しい病名は分からなかったが、あまり元気そうではなかった。 そして、久しぶりに見る彼女は随分と年老いたように思えた。 考えてみれば、私も40歳を過ぎたのだから当然である。 「有紗ちゃん、私、多分もう長くないと思うの。」 ある日、たまたま病室で二人きりになったとき彼女は言った。 私は言葉を失った。 「私ね、有紗ちゃんのお父さんと出会う前、病気で手術をしてね、赤ちゃんが産めない体になったの。だから、私にとって、あなたは血のつながりがなくても、自分の子どものように本当に可愛かったのよ。」 私は初めて聞く事実に耳を疑った。 「あなたにずっと拒否されているのは分かってた。だって、あなたのお母さんは亡くなったお母さんだけだもんね。だけど、私にとっては、あなたと過ごした時間はとても幸せな時間だったわ。」 遠くを見つめて言う彼女を見て、何と言っていいか分からず黙ってしまった。 「可愛い孫にも出会えたし、絶対にできないと思っていた、子育てをする喜びや幸せを感じられたから、もう人生に後悔はないわ。」 私は何を言っているのだろう?と思った。 だって、私は一度も“お母さん”と呼ばなかった。 彼女の作ったお弁当だって一度も食べたことがなかったし、きちんと話をしたことも、一緒に遊びに行ったこともない。 ずっと彼女のことを“真佐子さん”と呼んでた。 「唯一の心残りと言えば、一度でいいから、最後にあなたから“お母さん”って呼ばれてみたかったわね。」 悲しく微笑みながら彼女は言った。 「・・そんな、もう死んじゃうみたいなこと言わないでよ・・。」 そっけなく放った言葉に、やはり彼女は悲しく微笑んだ。 きっと冗談ではなく、本当に自身の死を自覚しているのだと感じた。 私は何故だか悲しい気持ちと、激しい後悔の気持ちで一杯になった。 どうして今まで素直になれなかったのだろう。 本当は母が亡くなって、寂しかったのに。 毎日お弁当を作ってもらったことが嬉しかったのに。 もっと、色んな話がしたかったし、ありがとうも、ごめんなさいも・・。 言えなかった言葉がたくさんあるのに・・。 そんなことが頭の中をぐるぐる駆け巡り、無意識のうちに涙が零れ落ちた。 「有紗ちゃん?どうしたの?」 彼女が不思議そうに、私の顔を覗きこむ。 私は泣きながら言った。 「・・今まで、ごめんね、“お母さん”・・。」 私の言った言葉に、彼女は満足そうに微笑むと、そっと私の手を握った。 出会った頃の面影はなく、しわしわの手だった。 「・・ありがとう・・。」 そう微笑んで言う母の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。                                   おわり
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