赤い月は見えないけれど、彼女は幻なんかじゃない。

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赤い月は見えないけれど、彼女は幻なんかじゃない。

小学生のころ、僕は廃校舎の図書室で本を読む女の子に出会った。 彼女は、友達と呼ぶにはあまりに一瞬の関係だったけれど、それでいて、僕の心に鮮烈に残っている存在でもあった。 彼女は、僕よりたぶん学年が上で、この辺りでは見かけない顔の女の子だった。たぶん違う地域からお手伝いに来た子だろう、と僕は推察した。 僕の地域は、少子化の影響で、いくつかの小学校が統合されることになっており、僕の通っていた小学校は廃校の対象となっていた。 当時、図書委員だった僕は、先生のお手伝いとして、図書室に残っている本の整理にあたっていたのだった。 きっと彼女は先生が連れてきた《助っ人》なのだろう。 「サロメは赤い月を見ておかしくなったんだよね、意味わかんない」と彼女は薄い岩波文庫を書棚に戻した。 僕はそんな難しい本は読んだことがなかったから彼女が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。 僕以外の図書委員たちは新しい学校に本を運びに出ていた。 体の弱かった僕は、蔵書整理の担当で。 彼女はそんな僕を見守る役を仰せつかっていたのかもしれない。 とにかく僕たちは二人きりで先生が戻ってくるまでの留守番していた。 「君はどんな本が好きなの?」 彼女は分厚い海外の小説が並ぶ棚を眺めながら僕に訊ねた。 「僕は……『海底二万マイル』とか『十五少年漂流記』とか……です」 僕は新しい学校へもっていく本とここに残しておく本を分類しながら答えた。 「ふーん」と、彼女は少しバカにしたように言った。 僕はなんだか自分が子供っぽい回答をしてしまったように思えて、少し後悔した。 「海の図鑑とか世界の地理とか、この辺の本も連れて行ってあげてよ」と彼女は僕の前に分厚い図鑑を持ってきた。 「いや、それは向こうの学校にもあるらしいから……」と僕が答えると 「ふーん」と彼女は残念そうに言って、本を書棚に戻しに去っていった。 僕は手元の本を整理し終えたので、文庫本の棚へ行き、先ほど彼女が読んでいた『サロメ』を手に取ってみた。 表紙があまりにグロテスクな感じだったので、本を開いてみるには勇気が出なかった。 そこへ彼女が戻ってくる気配がしたので、慌てて『サロメ』を僕は懐に隠した。 彼女は分厚い世界文学全集の【シェイクスピア】の巻を持って現れた。 「好きな本って、持って帰っちゃいけないのかな?」 「ダメじゃないかな……先生に怒られるよ」 「でもさ、新しい学校にもっていかない本はどうなっちゃうの? この全集とか」 僕は口ごもった。 「処分?」 「……そう、だと思う」 「もったいないと思わない?」 「そうだけど。仕方ないと思う。スペースもないし……」 「ふーん。スペースの問題なのか」  彼女の表情はどこか寂しげだった。 「君が連れていきたい本はもうないの?」 「僕には、選ぶ権利とかないから」 「こっそり、持って帰っちゃえ!」 「ダメだよ……」 「つまんないの。私なら、この文学全集、持って帰るかな」 僕が驚いた表情をしたのだろうか、彼女は僕を見て笑った。 「ウソ。私も我慢するよ」 彼女はそう言って、分厚い世界文学全集を持って、図書室の奥へと去っていった。 そこへ先生たちが戻ってきた。 「今日はもう閉めますよ」 「それじゃあ、呼んできます」  僕は図書室を探し回った。だが彼女の姿はどこにもなかった。 「誰を探しているの?」と先生が言った。 「名前はわからないんですけど……僕と一緒にさっきまで……」 「残ってるのは、あなただけよ?」 「え……」 僕はわけが分からなくなった。 「まあ、いつまでもここにいたいのはわかるけど。閉めるから。出てなさい」と先生は優しく僕の肩に手を置いた。 僕は先生に説得されて、図書室を出た。 彼女は先に帰ったのだろう。 その日の帰り道、僕は懐にずっと『サロメ』を隠していたことを思い出した。 改めて表紙を見てみる。薄い本だけど、やはり怖い気がした。 開いてみる勇気も出なかった。 明日、彼女に会ったら渡そう。 そう思った。 だけど、それはかなうことはなかった。 彼女とは二度と会うことがなかったからだ。 でも、大人になった今でも、あの時の彼女は幻ではないと僕は確信している。 なぜなら、 あの図書室から消えたのは、彼女だけだけではない。 分厚い、あの世界文学全集の【シェイクスピア】の巻も消えていたから。
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