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1.傘に隠れて
少しかび臭いような湿気た空気と、外の雨音がさざなみのように響く静けさと。
息を潜めてひそひそと交わし合う小さな言葉だけが、くすぐるように空気を揺らす。
僕は手にした本のラベルを確認しながら、大きな音を立てないように慎重に本を一冊一冊、棚に戻していく。913のせ、210のよ、002のか……。よく借りられる本ならばどこの棚かはだいたいわかるけれど、あまり人気のないものや、特に歴史系のタイトルがついた本なんかは小説なのか、歴史書なのか判別に困る上、宗教カテゴリーだったりもするから、目視確認は必ず必要になる。
そうして黙々と本を棚に収めながらも、僕の目は絶えず入口近くにあるカウンターを盗み見ていた。
カウンター業務は小野寺さんの担当だ。貸出や返却といった受付の合間に、返却された本の確認作業を行う。一冊一冊、落書きや破れがないか目を通した上で貸出票に日付のスタンプを捺し、隣に確認者の名前を書き込む。だから僕の今持っている本にも全て、貸出票には彼女の性格を表すようなこじんまりとした文字で「小野寺」の三文字が書き込まれている。
いつ見ても凛と背筋を伸ばした姿勢で、手元の本を見下ろす小野寺さんの横顔に、僕は何度でも目を奪われる。肩より少し上で切りそろえられた髪を耳にかける無造作な仕草に、胸が高鳴る。そのたびに露わになる、小さくぷっくりとした唇に釘づけになる。
僕の唇にたった二度だけ刻まれた、彼女の唇の感触が蘇る。
「終わったの、ある?」
手の中の本が無くなったところで、僕は小野寺さんに近づいた。髪が揺れ、小野寺さんが振り向く。正面を向いた唇が、僕の視線を捉えて離さない。
「お願いします」
小野寺さんは顔色一つ変えず横に重なった本を僕に渡すと、再び手元の作業に集中した。
ブラウスと髪の毛の隙間から覗く白く細いうなじに後ろ髪ひかれながらも、僕は再び本を棚に戻して歩く。
遠目に小野寺さんの横顔を伺いながら。
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