キスフレンド

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キスフレンド

 千秋奏には、見た目が美しいだけでなく、人としても尊敬出来る年上の恋人がいる。  ただ、その祝福すべき喜ばしい事実は、友達にも、家族にも現在進行形で秘密だった。  少なくとも無事に高校を卒業するまでは、絶対に誰にも言うことが出来ない。  ――俺もお前も、色々大変なことになるから、言っちゃ駄目です。分かった?  教室でいるときと同じ、ホームルームと変わらないテンションで、恋人からそう言い含められていた。  けれど、理解はしていても、千秋は、折に触れ『そこの教壇にいる、涼しい顔した家庭科教師、花妻亜樹、二十六歳は、俺の恋人なんだ!』と周囲に言いたくてたまらなくなる。教室で、自分のクラスメイトのことを「よく出来ました」なんて褒めた時なんかは、特にだ。  先生と生徒という関係だから恋人同士だと周囲に言えないのは仕方ないが、ないないづくしの関係に、健全な男子高校生の欲求はいい加減限界を迎えていた。  花妻との初めてのキスを擦り切れるほどに脳内でリピートしすぎた結果、最近では、後半のエピソードが勝手に脳内で創作されていた。  このままでは、卒業するまでに、花妻が絶対に言わない言葉百選が完成しそうだ。 (キスがしたいキスがしたいキスがしたい、あわよくばそれ以上のこともしたい!)  そんな訴えを視線に込め、味噌汁の鍋をかき混ぜながら花妻の顔を見ていた。  自分は花妻からみて、とてもいい生徒だと思う。実際、いい生徒だと、花妻も言っている。  悪いことはしないし、クラスの友達とは仲良くしているし、勉強は真ん中の成績。勉強よりスポーツが得意。 (いや、小学生の通知表かよ)  髪も染めてないし、ピアスだってしてない。制服だってちゃんと正しく着てる。シャツだって出してない。生徒指導で呼び出されたことなんてない。  もし悪いことをしたら、もっと花妻は構ってくれるんだろうか。  けれど、そんな方法でクラスメイトより構ってもらおうなんて、ますます自分が小学生みたいに思えた。  今より構ってもらうなら、どんな形でも嬉しいけど、どうせなら恋人として関わりたい。  授業中の調理室は、楽しそうな生徒たちの声で溢れ、誰も千秋の邪な熱視線に気づくことはない。  ――視線を送られた当の本人以外は。  花妻は、その綺麗な顔を歪めて面倒臭そうな顔をすると、渋々千秋がいるグループの調理台まで歩いてきた。決して恋人からの熱い視線に応えたわけでなく、あくまで家庭科教師としての義務を遂行するためだった。 「千秋はさぁ、なんでさっきから味噌汁を魔女みたいにグルグルかき混ぜてるんだよ。授業ちゃんと聞いてたのか?」  「……だって、ほら、なんか料理って愛情入れたらおいしくなるんだろ? 手をかければ手をかけるほどいいって」 「味噌汁は、ぬか床じゃねーんだよ」  気を抜けば、こんな些細な会話でも嬉しくて喜んでしまいそうになる。だから注意深く花妻と鏡写しのように不機嫌な顔をした。もちろん花妻のように綺麗な顔でもないし、平凡を絵に描いたような生徒が、生意気を言っているようにしか見えない。 「あのなぁ、料理は化学なの。鍋沸騰してるし、豆腐崩れる。味噌溶かしたら火止めろって配ったプリントに書いてるだろ、辛くなるんだって」  千秋自身、味噌汁を煮込みスープのようにするのが正解とは思っていないし、他の生徒よりも長い時間構って欲しいだけだった。結果その目論見は成功して、手のかかる生徒として花妻に指導されている。 「俺は塩辛い味噌汁が好きなんだよ」 「……へぇ、そりゃ将来は、味噌汁で恋人に逃げられるな、御愁傷様?」  花妻は、ふっと教師らしからぬ人を小馬鹿にしたような顔で笑うと、千秋に背を向けて次のグループのところへ行ってしまった。 「千秋って、ほんと亜樹ちゃん先生と仲悪いよな、コントみたいで見てて面白いけど」  同じ班の田島は、使い終わった調理器具を洗いながら、けらけらと笑っていた。 「つか、味噌汁の味で、恋人と別れるか?」  ぶつぶつ言いながらも、同じ班の仲間にマズイ味噌汁を食べさせるわけにはいかないので、花妻に教えられた通り鍋の火は止めた。 「どうだろ。でも確かにうちの親、喧嘩の原因は大体料理だな」  田島はへらへらと笑いながら言うが、千秋は全然笑えない。 (え、マジで、さっきの別れ話になんの?)  キスがしたくて、もっと構って欲しくて、適当なことを言ったばかりに破局の危機が訪れているらしい。 「――俺は、キスがしたいだけだったのに、あ」 「え、なに、どうしたどうした? 急に欲求不満かよ、最近彼女と上手くいってないのか?」  思わず口がすべって焦ったが、田島は話の繋がりを突っ込んでこなかった。 「あ、いや、まぁ、そんな感じ! キスしたいんだけど……高校生の間は節度ある交際をしましょうって、俺の彼女がさ!」  花妻が恋人だとは言えないが、それでも、全てを秘密に出来ない千秋は、友達に説明するために最近イマジナリー彼女を作っていた。その人は、他校にいて猫のように愛らしい小動物系。たとえ嘘でも架空の彼女を作る後ろめたさから、花妻から一番遠いイメージを設定していた。 「お前の彼女って変に奥手だなぁ? そんなの建前で千秋からしたいって言うの待ってるんじゃねーの」 「え、そうか?」 「そうそう。ほら、今キスフレとか流行ってるらしいし、一回かるーいノリで提案してみたら? キスだけだしいいじゃんって」 「なにそのキスフレって?」 「『キスフレンド』キスだけで体の関係は一切なしのお友達。健全な清いお付き合いらしいぜ? 女子の持ってる雑誌に書いてた」 「それ健全か?」 「だよな。女の考えることはわかんねぇよ」  田島は、どこか遠くを眺めていた。  千秋は、女どころか男の考えることもわからない。  正確にいえば、年上の、大人で、先生の考えることが分からない。  先生と生徒の範囲の付き合いに、手を繋ぐもキスも入ってないと思っていたが、田島の言うように、駄目元でも提案くらいは許される気がした。  付き合ってるのだから。 「でも、俺らは付き合ってるし、キスだけの関係になっても、キスフレンドにはならなくね?」 「だから、名前はどうでもよくて、要はきっかけとして抵抗ない言葉でハードル低くして、徐々に関係を深めるんだよ」  そもそもよくよく考えてみれば、付き合っているといってもデートをしたこともないし、手を繋いだこともなかった。  一度キスして、付き合うかって言われただけ。  急に、友人でもない気がしてきて不安に襲われる。 (ちゃんと、付き合ってる、よな俺ら) 「……言ってみようかな。殴られるかもだけど」 「お前の彼女、清楚でおとなしいんじゃなかったのかよ」 「あーうん。時々、すげぇ強気な人だよ?」  段々イマジナリー彼女の設定がブレブレになっていた。気を抜くとすぐに花妻の話にすり替わっている。  それくらい、千秋が花妻のことが好きってことだ。 「おいこら、A班男子遊んでないで、女子の手伝いしろ!」  そうやって田島と喋っていたら斜め後ろから、花妻の注意が飛んできて、慌てて女子たちの盛り付けの手伝いにいった。  ――キスフレ、キス友、か。  *** 「花妻先生、俺は別れたくない!」  放課後、足早に家庭科準備室に向かい、ドアを開けると開口一番に言い放った。 「あのなぁ、そういう話したいなら鍵閉めてからにしろ」 「はぁい」  言われた通り後ろ手で入り口の鍵を閉め中に入った。  現在、花妻から許してもらえていることといえば、この部屋で一緒にいることくらいだった。  鍵なんかかけなくても、放課後に家庭科準備室へやってくる先生も生徒もいないし、どちらかといえば、誰か来た時に鍵が閉まっている方が怪しまれる。 「先生、今日六時まで一緒にいていい?」  机の横に立つと、花妻は長い前髪を鬱陶しそうにかきあげ、大きなため息を吐く、なにか面倒な仕事をしているらしく、その視線はノートパソコンの画面を睨んだままだった。 「そこで、大人しく勉強するならな。――で、さっきの別れるって何」  千秋は準備室内にある広いテーブルにカバンを置いて、言われた通り今日出された宿題を机の上に出す。 「俺さ、味噌汁はちゃんと花妻先生の好みの味になるように頑張るから、別れたくない」  そう続けると、今度はパソコンから顔を上げ、千秋と目を合わせた。 「はぁ? 料理の味くらいで別れるかよ。お前、マジで俺の授業ちゃんと聞いてるのか? 食事で大切なことなんも学べてないし」 「だって、塩辛い味噌汁だと付き合えないって言ったじゃん」 「曲解するなぁ。食事では、精神的な満足も必要ですって俺、板書したと思うけど」 「え、じゃあ、好きな人が作ったものは、なんでも美味しい?」 「いや、それも論理の飛躍だな。まずいもんは、誰が作ってもまずいだろ」  花妻は目を細めて笑った。いつも険しい顔ばかりしている花妻は、時折こんなふうにふわりと氷が溶けたような顔をする。その笑顔は、千秋だけが知っている特別な気がした。 「で、だ。俺も千秋に訊きたいことあるんだけど、田島と何話してたの? よく聞こえなかったけど、体の関係がどうたらって、お前俺の授業中にワイ談するとは良い度胸だな」 「先生、地獄耳過ぎない?」 「先生の特技だよ。で、何? 言えよ」 「だから、その、俺は田島とキスフレについて話してただけで」 「何だそれ、若者語?」 「いや、先生も若者じゃん。俺さ、先生とキスフレンドになりたいなって……ほら、キスフレなら先生とやっても友達だからセーフみたいな?」  やましいことがあるから、無意識に早口で喋っていた。椅子に座って腕を組んだまま聞いている花妻の目はすわっている。 「なに別れたいって話か? 土下座までして付き合ってくれって言ったくせに、先生あっさりと捨てられちゃったなぁ?」  それに近いことはしているが、土下座ではないと思う。泣き落とし? 「ち、違うって! 俺は、ほら、ちゃんと付き合ってる証明が欲しいっていうか、だって今のままだと自信なくなるし、俺はただの生徒だし、こうやって、放課後一緒にいられるのは嬉しいし、特別なんだって分かるけど」 「一緒にいるだけじゃ足りないって?」 「……うん。だって、それに、ほら! キスってこう、癒し効果あるっていうし、俺も勉強で疲れたら先生とチューしたいなーって思うし、先生は俺にそんなこと感じない? 子供とは無理? 高校生だから?」  まとまらない言葉を一気に吐き出して訴えていた。花妻の顔はさらに険しくなる。 「回りくどい、一言で言え」 「……先生とキスがしたい」 「最初から、普通にそう言えよ。で、千秋は俺のキスで癒されたくて? じゃあ俺にはどんなメリットあると思う?」  メリットと言われるとわからなくなる。ドキドキしたり幸せを感じたりするのは、千秋だけで、もしかしたら花妻にはメリットなんてないのかもしれない。 「元気に、なる……?」  花妻の顔を見ながら恐る恐る訊ねた。 「確かに元気になるかもな。つまり、まとめるとお前は、欲求不満ってことか? なら余計に俺とキスなんてしない方が良いと思うけど」  じっと、切れ長の目で見つめられて、心臓が深く波打った。しない方がいいと花妻に言われて、自分だけキスしたいみたいで、少し傷ついていた。 「だって――したい。先生と一回しかキスしてないし、毎日、先生に触れたいし、キスしたいよ」  千秋は、まっすぐに花妻の目を見て切実な思いを伝えていた。そんな必死な姿を見て、花妻は、少し困っているように見えた。 「……ま、お前もバカじゃないから、一回すれば分かるか。いいよ、キスフレがどういうことか教えてやるよ」 「え、いいの」 「あぁ、キスだけなら、な?」  あんなに、お互いのためにこの関係は秘密にしよう、先生と生徒でいようと言っていたのに、切羽詰まってお願いしたらあっさりと許されて拍子抜けした。  田島が言うように、花妻は千秋からキスしたいと言うのを待ってたのだろうか。  花妻は席を立ち、おもむろにカーテンを引いた。西日が差し込んでいた明るい部屋が途端に薄暗くなる。  初めて花妻とキスした時、この部屋のカーテンは開けっ放しで明るかった。床に膝をつく千秋と同じ目線で、軽く唇がくっついただけのキス。一瞬の出来事だったが、頭に焼き付いて今も離れない。  けれど、今日はなぜか、外から見えないようにカーテンを引いた。それが「今から、悪いことをします」という合図みたいで、千秋の心臓は痛いくらいに鳴っていた。  千秋は今まで悪いことなんて一度もしたことがない。花妻を好きになったことだって、恋人同士になったことだって、悪いことじゃないと思っている。なのに、今はその後ろめたい行為に惹かれていた。 「お前、興奮しすぎ。まだカーテン閉めただけじゃん」  千秋の脈を確かめるみたいに花妻の手のひらがすべり首筋に触れた。その恋人みたいな触れ方だけでバカみたいに喜んでいる。花妻の長いまつ毛が伏せられて、千秋が目を閉じる間も無く、唇と唇が重なっていた。  視線が交差し、戸惑う千秋をおいてけぼりにして、行為は先に進んだ。  花妻は千秋の唇をゆっくりと確かめるように舌でこじ開け、口内に侵入してきた粘膜が小さく音を立てて絡み合った。  初めて花妻の内側を知った。  まるで花妻がいつも授業中に千秋へ教えてくれるように、淡々と自分の中に溶けていく。  甘くて、苦い。 (それから? もっと知りたい)  唇に軽く触れるだけじゃ知ることもなかった、千秋の中にある欲が次から次へと溢れてきて、その隠したい羞恥を花妻の視線は、無防備にさらけだそうとする。  首筋に触れた花妻の手の温度だけでもいっぱいいっぱいだったのに、内側の温度を知ったら、頭の回線がパンクした。  我慢なんてできなかった。  もっと先が欲しくて、もっと深く触れて欲しくて、その気持ちは「キスだけの関係」で満たされる気がしなかった。  キスフレンドなんて、千秋にとって毒でしかなく、二度も三度も続けてしまえば、もう「先生と生徒」でいられなくなることは明白だった。  自分から欲しがったのに、苦しくてたまらなくて、花妻から身体を離し、ずるずるとその場に座り込んでいた。頭の先から足の先まで全部が熱かった。 「好きな人とキスするって、こういうことだよ。千秋は俺とキスフレになって毎日こんなことできるの? 俺は無理だなぁ、身が持たない」  多分、千秋は生徒のままでいられる気がしない。理性が悲鳴をあげる。 「ねぇ、千秋。先生は先生のまま、千秋を生徒として、この学校を卒業させたいんだよね」  千秋は下を向いたままで頷いた。その気持ちは同じだった。恋愛の対象として花妻のことが好きだが、先生の花妻だって同じように好きだ。尊敬すべき人だと思っている。 「だから、俺はキスだけの関係なんて、無理。絶対足りなくなる」  花妻とのキスは、想像してたような、ドキドキするとか幸せになるだけじゃなかった。頭の中が一瞬でぐずぐずになってしまった。 「千秋、若いし? 色々したいのはわかるけど、でも、ちゃんと線引かないとお互いツライだろ? 分かった?」  先生の声で嗜めるように言われて悔しかった。経験値が違う。子供で余裕がない。全てがもどかしい。 「バカにするなよ」 「してないよ。俺だって、一緒」 「嘘だ、全然一緒じゃない」  先生と生徒で、大人と子供。何一つ一緒のところなんてないと思った。 「嘘じゃないよ。先生なのに、お前があんな可愛い顔してねだるからさ、全然我慢できなかったじゃん。今、すげぇ反省してるし」  そう情けない声で言われて、驚いて顔を上げれば、花妻は先生らしくないばつの悪い顔をしていた。全然一緒のところなんてないと思ったのに、その顔を見ると、急に自分とそう変わらない男の気がして不思議と安心していた。 「もしかして、先生って、すげー俺のこと好きなの?」 「――知らなかったんですか?」  人を小馬鹿にするように笑う顔は、教室でいつも見る先生の顔だった。 「花妻先生、俺、先生のこと好き、好きだよ。大好きだから」 「はいはい、君の気持ちは、最初からちゃんと伝わってますよ。俺好みの味噌汁作ってくれるんだろ?」 「塩辛いのでいい?」 「嫌です」  花妻は、努めて飄々と話し、いつもの雰囲気に戻そうとしてくれているが、それでも、千秋はすぐに切り替えられる気がしなかった。花妻のキスを知ってしまったから、近くに欲しいものがあるから。今は花妻のことしか考えられないし、花妻の全部が欲しい。我慢するけど。 「ねぇ先生。今日は、俺、帰るよ」 「先生も、お前のこと襲いそうだから、今日はさっさと帰ってくれると嬉しいな」  本気だよって、それが伝わってきた。千秋も同じ気持ちを伝えたかった。 「先生、襲ってもいいよ。卒業したら」 「――卒業したらな」  そう返した花妻のことを見ないで、慌ててテーブルの上の勉強道具をカバンの中に押し込んで走って外に出る。  部屋を出る時に、花妻がタバコを口にくわえたのが目の端に映り、そのタバコのことが、なんだかひどく羨ましかった。  千秋が、花妻との関係を進めたいと思っていた間、花妻は、今のまま卒業まで関係を続けるためにどうするべきかと考えていたことを知って、子供だった自分を少し反省した。  翌日の放課後、いつもと同じように家庭科準備室へ行くと、珍しく花妻は部屋に居なかった。  机の上には、昨日花妻が吸っていたタバコケースが乗っていた。  ふいに、昨日のキスの味が恋しくなり、吸い寄せられるように、タバコに手を伸ばした。 「――ねぇ何してんの? 千秋」 「ヒッ!」  突然後ろから声をかけられて、氷を背中に入れられた時みたいに、ビクビク肩を震わせた。手の中にあったタバコを慌ててポケットの中に押し込んで隠す。  花妻は、ちょうど真後ろに居たので見えていないはずだった。  ゆっくりと振り返ると、花妻は、眉間に皺を寄せて怒っていた。手に持っていた書類の束を素早くクルクル丸め、パンパン手の上で叩いている。口は弧を描いて笑っているが、目が笑っていない。 「いま隠したものを、先生に渡しなさい」 「何も、隠してないです」 「へぇ、何も?」 「ナニモシテナイデス」 「ロボットかよ」  くつくつと笑った顔を見て、あぁ、やっぱり綺麗だなぁと思った。最初は花妻の顔を好きになった。  家庭科の先生で、授業中は氷みたいに冷たい表情をする。笑いの沸点は意外と低い。モデルでもしてそうな顔なのに、普通に先生みたいなことを先生の顔をして言う。  そんな見た目と言葉遣いに反して真面目なところを好きになった。  けど、先生じゃないときは、千秋に隠れて一人で適当な生活してる。だから、心配もしてる。 「勝手に入ってすみませんでした」 「まぁ、鍵かけてなかった俺も悪いんだけど」  花妻は机の上に置きっぱなしだった、タバコの箱に手を伸ばし、ポケットにしまった。 「先生、タバコって、美味しい?」 「美味しいよ?」 「じゃあ、俺とするキスより?」 「なに、まーだ昨日のキスフレの話続ける気? 出来れば勘弁してほしいんだけど」 「いや、あれは……もういいです。十分」 「分かればよろしい。で、千秋さ、そのポケットに入れているものに火つけた瞬間マズくなるんだよね」  なんのことが分からず、ぼけっとしていると、花妻は、前触れもなく千秋の頬に軽いキスをした。 「千秋、聞いてる?」 「っ、なっ! 先生、卒業まで、キスしないって」  昨日の全身の血が沸騰するようなキスじゃなく、それは挨拶みたいなキスだった。 「一切しないなんて言ってないだろ。場所とやり方考えてくれればいいよ。けど、昨日みたいなのは、卒業まで無しな。俺も我慢できなくなるから」  じゃあ昨日も今日のような軽いキスをすれば良かったのにと思った。えっちなことに興味津々だった千秋に対して教育的指導のつもりだったのなら悪趣味だ。 「じゃあ、手繋ぐのは?」 「お前は、高校生にもなって、手を繋いで歩いて欲しいのか?」 「それは……その」  恋人繋ぎを説明しようと思ったが、その言葉は打ち消された。 「千秋、話を逸らすな。いいから、ほら、さっさと、そのポケットの中のもん出す!」  腑に落ちない顔をしていたら、花妻は、再び怒った顔になり手のひらを上にして眼前に差し出してきた。  千秋は、仕方なくポケットの中に手を突っ込んで握りつぶしたタバコを差し出された手の上に置く。 「マズくなるって先生の立場が?」 「それもあるけど、知らねーの? 喫煙者が非喫煙者とキスすると、甘くて美味しいってお話」 「何それ、じゃあ、俺はずっと、まずいキスのままってこと?」 「なんだよ千秋、昨日まずかったの? 俺とのキス。せっかく心を込めてしたのになぁ」 「……まずくは、なかった」  美味しいとは言いたくなかった。 「良かったな」  千秋は、花妻のタバコ味のキスが、苦くて甘いことをもう知っている。  そして、あと一年半くらいは、そのキスを心ゆくまで味わえないことも分かっているし、おそらく花妻がくわえているタバコに嫉妬し続けるだろう。  花妻のことが大好きだから。 「なぁ千秋、俺とキスしたくても、タバコは吸うなよ。俺さ、どうせするなら、お前と美味しいキスがしたいんだよね」  そう目を細めて、意地悪く笑った顔で見つめられる。 「……い、一年半後に、昨日より美味しいキスご馳走してやるよ」 「それはそれは楽しみだな。じゃあ俺はその間、頑張ってタバコで味付けしておくよ」 「いや、そこは俺のために禁煙してよ」 「はいはい」  花妻が「美味しいキス」を所望している以上、千秋は、どんなに花妻とキスがしたくなっても、タバコを代替にできないのを悔しく思う。  けれど、キスがしたいキスがしたいと、この放課後の家庭科準備室で思った気持ちの分だけ、卒業後に美味しいキスが出来るのだと思うと、指折り数える「先生と生徒」でいられる毎日を大切にしたいと思った。 終わり
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