1人が本棚に入れています
本棚に追加
梨沙の話は続いていた。いつの間にか観音菩薩の姿は消えているが、金色の光の霧のようなものだけが辺りに漂っていた。
「川の神に少々お待ちいただく旨を奏上しなければなりません。この役目は、大巫女であるあなたがたしかできないこと。さあ、参りましょう」
そう言って、怯える大巫女を一人掴まえ、川に落とした。
大巫女はしばし溺れ、川に吸い込まれるように消えていった。
恭しく川に祈って待っていた梨沙は、やおら振り向いて言った。
「おや、戻って来られませんね、おかしいですねえ神通高い大巫女さまなのに。それでは次はあなたです」
また別な大巫女の婆を掴まえ、川へと放った。大巫女はまたしても、喘ぐようになんどか声をあげてから、川へと飲み込まれていった。
こうして大巫女を全員川へ落とし切ると、皆が唖然と見守る中、梨沙は首を捻った。
「おかしいですねえ。大巫女さまなら川の神さまにお願いできるはずですが。……そうですね、じゃあ次の適任者は、大金を皆さまから巻き上げる役目の村役人さまですかね」
そう言って笑顔で村役人どもを振り返った。
村役人どもはやにわに焦り出した。
「も、申し訳ございません!我々には何の力もありませんので!なにとぞ、なにとぞ!お許しくださりませぇぇ!!」
何度も何度も土下座をして、村役人たちは詫びた。地に幾たびも打ち付けた額からは血を流した。村人から集めた金は全部返すと泣いた。
それを聞くと、梨沙は優しい顔で微笑んだ。
それから、その場にいる俺たち全員に向けて言った。
「川の神様は、巫女さまがたを歓迎しすぎて帰したくないようです。巫女さまがたがお帰りになるまで、この儀式は中止となるでしょう。もし、どうしても儀式をやりたい場合は、私をここに呼んだ、そこの飛隆どのへ話をつけてください」
全員が俺を振り返ったので、めちゃくちゃ驚いた。腰を抜かさなかったことを褒めてほしい。
どこからともなく、ぱらぱらと拍手が起こった。少しずつその音が増えていき、最後には割れんばかりの万雷の拍手となった。
――一体、何者なんだこいつは。
そう思ってその僧侶を見つめていると、笑顔で俺に近づいてきた。
怯えたように俺にしがみつく麗紫を、大丈夫だと励ます。少なくとも、こいつは曲がったことを許さない奴なんだ。
「安心してください。大巫女さまがたは、観音菩薩が遠い場所へ連れていきました。もうここに戻ってくることはありません」
こっそりとそう言い、梨沙は微笑んだ。空に浮かんだ観音菩薩は本物だったのだ。俺は驚いた。
「ここに川の神なんていません。もしいても、人を殺してまで崇められたいと思う神なんて願い下げでしょう?」
いたずらっぽく笑うその女に、俺も麗紫も礼を言った。
万雷の拍手は、いつしか本物の雷に変わっていた。流れてきた雲が、竜のような稲妻を走らせる。泣きだしそうだった空が、本当に涙を零しはじめた。ぽつりと落ちた雨が、見る間に音を立てて降り出した。
「ああ、お迎えが来たようです」
雷鳴轟き、時折白く光る空を見上げ、濡れそぼった姿で梨沙は言った。
「お前……一体、何者なんだ……?」
俺の声に、梨沙はにっこりと微笑んだ。
「あなたと同じ、普通の人間です」
夕立の豪雨を縫うように、小さな雲がひとつ降りて来た。上には天神のような凛々しい男が乗っている。
「梨沙、お前どこまで飛ばされてるんだ」
呆れたように笑う背の高い男に、梨沙は笑顔で手を振った。
男とともに雲に乗った梨沙は、俺たちに声をかけた。
「お二人の幸せを、心から祈っています。それと、飛隆さん。そのうち灌漑のお勉強をするといいかもです。本当の意味で村を救うのは、あなたですから」
そうして、おかしな天女と天神は去った。
夕立は白く煙るように音を立て続け、空が時おり昼間のように瞬く。
麗紫が小さく、言った。
「神立……」
曰く、神立とは、雷をともなう夕立のこと。それは時に、神仏を連れてくる。
――そうか。
神立は大地を震わせ、空を駆け、新たな始まりを告げたのだ。
自分の手で作りあげていく時代を。
もう見えなくなった空の二人に、俺は手を振ったのだった。
最初のコメントを投稿しよう!