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11.大脱走
男はパソコンの画面を睨みながら、マウスをくりくり動かしていた。その手を離し、キーボードを打とうとしたところで、
「うわぁ!びっくりしたなり。なんでござるか」
奇声を上げて立ち上がった表紙に椅子が倒れた。
「どこから入って来たなりか?」
言いながら辺りをきょろきょろと見回した男は、壁際に立てかけてあった棒状のものを手に取った。それはプラスチック製のおもちゃの刀だった。
侍のごとく、彼はすらりと鞘から引き抜くと、
「おのれ忍びの者、拙者が成敗してくれる」
それを上段に構え、パソコンのキーボードの上を睨んだ。
男の視線の先にはネズミがいた。彼はそれ目掛けて刀を振り下ろそうとするのだが、その寸前でネズミは床に飛び降りた。
ちょこまかと動くネズミを追いかける男は「セイヤ!セイヤ!」と掛け声交じりに刀を振り回した。しかしネズミの動きは俊敏で、切っ先は床を叩くばかりだ。パコパコと間抜けな音があたりに響く。
その様子を眺めていたノリタはあることに気づき、「ん?」と声を上げた。
「ダイキチさん、どないしはったんですか?」
チョビの問いかけに、彼は逃げ回るネズミを目で追いながら答える。
「あのネズミ、ジュリーじゃないよね」
チョビもトラザエモンも逃げ回るネズミに目を凝らす。
「あ、ほんまや」
「ほんとうだ」
2匹は同時にそう言った。
その間にも男は必死の形相でネズミを追い回していた。
そのうちに疲れたのか、刀を振り回すのをやめると、
「すばしこいやつでござるなぁ」
ぜいぜいと息を切らせた彼は、ふとあらぬ方向に目を向け、あんぐりと口を開いた。
ノリタたちも、何事かと思いながら男が見つめるほうへといっせいに顔を振り向けた。
そこにもネズミがいた。それもまたジュリーではない。そのネズミは本棚に並べられたフィギュアのひとつに乗っかり、それをとんがった前歯でガシガシとかじっていた。
「こらぁ、なにをするなりかー」
男は目の前のネズミをあきらめ、大慌てでそちらに向かった。フィギュアの上のネズミに狙いを定めると、水平におもちゃの刀を構えた。
フィギュアの上でそれをかじっていたネズミは男の行動を目にしてひょいと飛び降り走り去った。
すでに真一文字に刀を振りぬこうとしていた男は、逃げるネズミを目で追ったため、その軌道が大きくぶれた。
そのせいでプラスチック製の刀身が別のフィギュアを見事に捕らえた。パコーンという音と共にそれは綺麗な放物線を描いて反対側の壁にぶつかり、ばらばらに砕け散った。
「イッポン!」とチョビが茶化す。
しかし男にはそれが「ニャー」としか聞こえないはずだ。それ以前に、そもそも彼の耳にそんな鳴き声など届いてはいなかった。彼は大切なフィギュアを自ら壊してしまったことに頭を抱えて後悔していたのだから。
「ぎゃーー。限定品のフィギュアがー!」
あたふたと床に散らばったフィギュアの破片をかき集めていた男の感情は、やがて怒りへと転じた。その矛先はもちろんネズミだった。
男は刀を握る手に力を込めながら振り返った。あだ討ちをするかのように鼻息を荒げる彼は、ネズミの姿を求めて血走った目をせわしなく動かす。やがて見つけた小さな獣を目がけて歩き出そうとしたところで足を止めた。視界のはしに別のネズミを見つけたからだ。男はそちらに進路を変える。そしてまた立ち止まった。別の方向にもネズミを見つけたのだ。
動揺した様子の男はきょろきょろと辺りを見回した。いたるところにネズミがいた。床の上に、棚の下に、作業台の上の作りかけのプラモデルにも……。ネズミはそこかしこで、置かれているものを手当たり次第にかじっていた。
不意に男の股下をネズミが駆け抜けていった。まるで小バカにしているようだ。
「ひっ」と言って飛び上がった男の手からおもちゃの刀が滑り落ちた。
「どういうことなりか?ネズミがこんなにどこから湧いて来るでござる?」
情けない声でそう言って、男はがくりとひざを落とした。その表情からは怒りが消え去り、今にも泣き出しそうだ。
ノリタを含めたネコたちには、男の疑問に対する答えはすでに出ていた。彼らは全員窓のほうを見ていた。ノリタとトラザエモンが外から開けようとした窓だ。そのガラス戸が数センチ開いたままになっていた。
その隙間から次々とネズミがなだれ込んでいた。入ってきたネズミたちはまるで競争でもするように、ありとあらゆるものに飛びついてはそれをかじり始める。
ネズミの数はすでにどれだけいるのかわからないほどに増えていた。それを呆然と眺めていた男がおろおろとしながら、
「どうするなりか。こんなにたくさんのネズミ、1人じゃどうにもできないでござるよ」
「ダイキチさん」
その声でノリタは振り向いた。ケージの外にジュリーがいた。
「今こそ出番ですぜ」
彼は意味ありげな笑みを見せた。
「出番て、ケージの中じゃなんにもでけへんがな。お前、人間に開けさせるとかたいそうなこと言うといて、みんなで暴れまわっとるだけやないか」
不満げなチョビの言葉にジュリーは
「だから、鳴くだけでいいんだよ」と自信満々の表情を見せる。
「鳴く……」
「だけ?」
怪訝な顔のトラザエモンとチョビが顔を見合わせた。
2匹のせりふにジュリーは「大きな声で……」と付け足してから、ノリタへと視線を向ける。
鳴いてどうなるのだと思いながらも、彼はとりあえず「ニャア」と鳴いてみた。言われたとおり、なるだけ大きな声で。
それを耳にした男が振り向いた。彼の視線がノリタとぴたりと合う。
「そうでござる!」と男は立ち上がった。
「ネズミと言えば、こいつらでござるよ」
救世主にすがりつく迷い人のような表情の男は、あたふたと机の引き出しを開け、カギの束を手にケージの前にやってくると、その扉を片っ端から開け始めた。
「おい、お前たち。出番でなりよ。あのネズミたちを捕まえるなり追っ払うなり、なんなりとするでござる」
ケージの扉が開いたのに外に出ない手はない、とばかりにネコたちはいっせい外へ飛び出した。もちろんノリタも急いで床に飛び降りた。
棚の下でネコたちはひとかたまりになっていた。さまざまな種類のネコたちのなかで、1匹の黒ネコがノリタたちに歩み寄った。
「驚いた。ネズミがネコに恩返しをするなんて」
その声はジバだった。
「さすが、ウワサに聞くダイキチさんだ」
ダイキチのやつ、そんなに有名だったのか。いったいどんなウワサが流れていたのか、ジバにたずねてみたいところだが、本物のダイキチならそんなことは絶対にしないだろと思い、ノリタは「いえいえ」と謙遜するにとどめていおいた。
「もっと驚いたのは……」
トラザエモンが会話に加わる。
「ジュリーのやつが言ったとおり、あの男が自らカギを開けたってことですよ」
彼は同意を求めるように「なぁ」と言ってチョビを見た。
ところがチョビはそれには応じず、ぼんやりと何かを見つめていた。半開きの口からは、「カワイイなぁ」とつぶやき声が漏れた。
ノリタとトラザエモンはチョビの視線をたどる。その先には黒ネコのジバがいた。
「おいチョビ。お前今、可愛いなって言ったか?」
トラザエモンに小突かれて我に返ったチョビは、
「は?ちゃうで。ちゃうちゃう」とあたふたと顔の前で手を振った。
「お前、まさかジバのことを?」
「なんでやねん。オレはただ、か……か……痒いなぁって言うただけや」
そこで彼は大げさに頭を掻いてみせる。
「絶対嘘だ」
「ほんまやっちゅうねん」
「ちょっと」とジバが2匹に詰め寄った。
「その話は後でしてもらってもいい?」
トラザエモンが素直に反省の色を見せたのに対し、チョビはどことなく嬉しそうだ。近づいたことを喜んでいるようだ。
そんな様子にジバはくすりと笑ってから、ノリタに視線を振り向けた。
「どうします?あの男が見てますよ。早く何か行動を起こさないと」
確かにそうだ。自分たちがネズミの大群に何の効果もないとわかれば、恐らくケージの中に逆戻りだろう。だからと言ってあの男の言うとおりにネズミを捕まえることもできなかった。自分たちのために集まってくれたネズミたちなのだ。そうなると言いだしっぺのジュリーに訊ねなければならないのだが……。
そんな思いが通じたのか、不意にジュリーが目の前に現れた。ノリタにぺこりとお辞儀をしてから、
「ダイキチさん、これから、あっしたちネズミを追いかけるふりをしてくだせぇ」
「ふり?」
「そう。ふりです。つまり芝居です」
「ふりをしてから、どうするの?」
「そのあとは、モモタローさんの出番です」
「え、モモタローって……」
どういうこと?と問いかける間もなくジュリーは走り始める。
ノリタはチョビやトラザエモンと顔を見合わせた。お互いの顔に戸惑いの色が浮かんでいる。
「おいおい、お前たち。なにしてるなり。はやく捕まえるでござるよ」
切羽詰った男の声が聞こえてきた。
「とりあえずジュリーの言うとおりにしよう。でないとまたカゴの中に戻されちゃうかもしれないから」
ノリタの言葉にチョビとトラザエモンは了解と言って敬礼をしてみせた。ジバをはじめそのほかのネコたちもいっせいにうなずいた。
ネコたちは手分けしてネズミを追いかけることにした。それぞれ手近にいたネズミめがけて走り出し、みんながばらばらにネズミを追い回していく。
そうするうちに、部屋の中のあちらこちらに散らばっていたネズミたちが、だんだんといくつかの集団を形作るようになった。最初は数匹だったそれらの集団は、さらに集まることによって数10匹の集団になり、やがてネズミたちすべてが一塊になった大集団が出来上がった。さながらそれは、ネズミの大行進とでも言えそうなものだ。
部屋の中で所狭しと走り回るネズミの大群の後ろから、これまたネコの団体が追いかける。ともすればネズミに追いついてしまいそうになるために、ネコたちは時折スピードを調整しながら、ぐるぐると部屋の中を走り回る。
「なあ。オレらこのままネズミ追いかけるふりして、走ってるだけなんやろか?」
チョビの疑問にトラザエモンが応じる。
「そんなことないだろう。さっきモモタローさんの出番があるって、ジュリーのやつが言ってたじゃねえか」
2匹の会話を耳にしたノリタは思う。肝心のモモタローはいったいどこに?
するとそのとき、
「おい、こっちだ!」
聞き覚えのある声だった。走りながらそちらを見るとドアがあった。それが少しだけ開いている。その隙間からぬっと突き出た手が、おいでおいでと手招きをしながら、
「こっちだ。はやくしろ」
「あれってモモタローさんじゃないですか?」
トラザエモンはそう言ってそちらに向かおうとした。
それを「ちょっと待ちな」とジュリーの声が止めた。
ジュリーはネズミの大集団からひょいと飛び出すと、くるりとジャンプしてトラザエモンの背中に飛び乗った。
「おい、なにしやがんだ」
振り落とそうとするトラザエモンの背中に必死にしがみつきながら、
「今は、そんなことに、こだわっている、場合じゃ、ありやせんぜ。ここは、あっしの話を、聞くべきだ」
ジュリーのセリフは振動のために途切れ途切れになった。
見かねたノリタが目で合図を送ると、トラザエモンはしぶしぶといった感じでおとなしくなった。
その背中に腰を落ち着けたジュリーは、
「いいですかい。勝手な行動はお控えください。物事には、順序ってものがありやす」
背中に乗ったネズミに不愉快な顔を浮かべながら、「順序ってなんだよ」とトラザエモンが問いかける。
「これはネコがネズミを追いかけているふりなんだ。だからネコが先に動いちゃまずいでしょう」
ジュリーがそう言っている間に、ネズミの大集団はドアのほうへと進路を取り、先頭から順に外へと出始めた。
その様子を見ていた男がうれしそうに声を弾ませる。
「いいぞ。ネズミが逃げていくなりよ。その調子でござる!」
ネズミが次々と外へ飛び出していくうちに、とうとう大集団はすっかり姿を消してしまった。それでもノリタを筆頭にネコたちは行動をやめず、ドアの外に向かってネズミを追いかけていく。その姿は、男の目には働き者のネコと映ったかもしれないが、あくまでもそれは芝居なのだ。
計画通り、ノリタたちはネズミを追いかけるふりをしながら、まんまと建物の外へ出ることに成功した。
ノリタ、チョビ、トラザエモン、そしてジバや他のネコたちが建物の外へ飛び出したところで、待ち構えていたモモタローが後ろ足で蹴るようにしてそのドアを閉めた。
「さあ、こんなところでもたもたしてちゃだめだ」
モモタローはそう言うと、一目散に走り出す。
「人間が追いかけてこないうちに、行きやしょう」
トラザエモンの背中に乗ったままのジュリーはまるで馬にムチでも入れるように、「ヒーハー」と言ってトラザエモンのお尻を叩いた。
「お前、あとで覚えとけよ」
欠けた耳をピクリと動かしたトラザエモンは、苦虫をかみつぶしたような顔で走り出した。
その姿に思わず笑いながら、ノリタとチョビも、そしてジバをはじめそのほかのネコたちも後を追った。
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