1.森ノリタ

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1.森ノリタ

「森ノリタ!」  名前を呼ばれたノリタは、飛ぶようにクラスメイトの間をかけぬけると、教卓の向こう側に立っている先生の手から、半ば奪うようにして答案用紙を受け取った。  その表の面が誰にも見えないようにお腹に押し付けて、大慌てで自分の席に戻ると、点数が書き込まれていると思しき隅の部分だけをチラリと裏返してその数字を確認する。  それを目にしてどんよりとため息をつく彼の肩を、後ろの席のツネオが叩いた。 「よお、ノリタ。何点だった?」  びくりと体を振るわせたノリタは、後ろから見えないように答案用紙を机の上に伏せてから振り返る。 「そ、そんなこと、教えられないよ」  無理やり笑顔を作って答えると、これでもかと言うくらいに用紙を小さく折りたたんでランドセルの奥のほうに突っ込んだ。 「ははぁん」  ツネオはそう言いながらいやみったらしい笑顔を作ると、 「教えられないってことは、全問不正解だな?」 「違うよ!ちゃんと3問正解し……」  思わずそこまで言ってから、しまったと口をつぐむものの、すでに手遅れだった。  ツネオはニヤニヤと笑いながら、 「へ~。3問も正解したんだ。ってことは、多く見積もっても15点ってところだな」  まさしくその通りだった。そのためノリタは何も言い返せず、もごもごと口を動かすことしかできなかった。  そんな彼のピンチを救ったのは、先生の声だった。 「コラ、そこ。私語はやめる。ちゃんと前を向いて先生の話を聞きなさい」  注意されたことで、ノリタは慌てて前を向いて座りなおした。反省しているところを示すために真面目な表情を作るものの、内心ではツネオの追及から逃れたことにほっと胸を撫で下ろしていた。  そんなことには気づく様子もなく、黒板の前に立つ先生は、教科書を片手に授業を始めた。  学校が終わり、家にたどり着いたノリタは、身も心もぐったりと疲れ果てていた。今日返してもらったテストの結果を、学校にいる間から帰宅途中まで、ツネオに散々からかわれたからだ。  玄関のドアを開くと、一安心だとばかりに大きな息を吐いてから、靴を脱いでふらふらとリビングのほうへ向かった。  部屋に入るなり背負っていたランドセルを床に打っちゃり、ふかふかのソファに疲れた体を投げ出そうとするものの、すんでのところで踏ん張ってこらえた。なぜならその真ん中で、ダイキチが丸まって寝ていたからだ。  ダイキチとはノリタがまだ幼い頃にもらわれてきた三毛ネコだ。ノリタにはよくわからないが、オスの三毛ネコは遺伝子の関係でめったに生まれてこない珍しいネコなのだそうだ。それを知った彼のお父さんが、とても縁起がいいからという理由でその名をつけたらしい。  安らかな寝顔を覗き込むようにしゃがみ込んだノリタは、大げさなため息を一つついてから言った。 「いいよなぁ、おまえは。昼間から寝てばっかりで。うらやましいよ」  その言葉が聞こえているのかいないのか、すやすやと寝息を立てているダイキチは、一瞬ピクリと耳を動かしただけで、目を開こうともしない。  あまりにも気持ちよさそうに眠るその姿が少しうらやましくも憎らしくなったノリタは、そっと右手を伸ばしてヒゲをつまむと、それをぐいと引っ張った。そうすることで、ほっぺの肉がめくれ上がったダイキチは、めんどうくさそうに開いた片目で彼のことを睨んだ。  その反抗的な目の輝きにカチンときたノリタは、もっと引っ張ってやろうと考えて手を出しかけた。ところが。 「あらノリタ、お帰り。帰ってたのね」  突然背後から聞こえたお母さんの声に、ビクリとなってその動きを止める。 「ただいま」  あわてた様子でノリタが振り返ると、お母さんは笑顔を浮かべ、右手を差し出していた。まるで何かをちょうだいとでも言うように。  その仕草の意味するところをうすうす感じ取りながらも、お母さんの顔へと視線を移したノリタは「なに?」と問いかけた。 「なにじゃないわよ」  目を見開いたお母さんは、 「今日はテストを返してもらう日だったでしょ」 「ああ……」  やっぱりそうか、という風にうなずきつつも、ノリタは頭の中でなんとか答案用紙をお母さんに見せなくても済む方法はないものかと考える。たとえば、先生が急に休んで答案用紙が返ってこなかった……とか、はたまた風に飛ばされてどこかにいってしまった……だとか、そもそもテスト自体が中止になった……とか。しかし、どれもこれも一度は試したアイデアである上に、全て簡単に見破られたことを思い出した。観念した彼は床に打っちゃったままのランドセルをしぶしぶたぐり寄せる。  結果を先延ばしにしても、決してそれが好転することはないとわかっていながら、ノリタはのろのろとランドセルを開いて底のほうに手を突っ込んだ。  教科書とノートのすき間に小さくたたんだ答案用紙を探り当てた彼は、おずおずとそれを差し出された右手の上に乗せた。  お母さんは満面の笑みで手のひらの答案用紙を広げていくものの、その形が八つ折れから四つ折れ、四つ折れから二つ折れへと変化するうちに、顔に浮かんでいた笑みは徐々に消えてゆき、最後にはオニのような形相に変わっていた。 「ノリタ!」  お母さんの大声に思わず首をすくめた彼は、自分でも気づかぬうちに正座をしていた。  その前で仁王立ちになったお母さんは、目を三角にして言った。 「なんなの、この点数は?」 「それはその……」  ノリタが言い訳をしようとするのも聞かず、一方的に言葉を続ける。 「だからあれほど勉強しなさいって言ったでしょう。なのにあんたときたらゲームやマンガ片手にごろごろするばっかり。今度と言う今度はもう許しませんからね。当分の間ゲームもマンガも禁止します。もちろんごろごろするのも禁止。学校から帰ってきたらすぐに机の前に座ること。宿題を済ませてからその日の復習をやって、もちろん次の日の予習もするのよ」  息もつかずに一気にそう言い終えたお母さんを、ノリタはあっけに取られて眺めていた。少し間を置いてからようやくその言葉を理解した彼はうろたえながらも反論する。 「そ、そんなぁ。そこまでしなくても……」  言っている途中でノリタは口をつぐんだ。お母さんがまるで、裁判に勝った人が勝訴と書かれた紙を見せびらかすように、答案用紙をずいと前に突き出したからだ。赤字で書かれた数字がこれでもかというほどに目立つ。 「なにか文句でも?」  お母さんの圧倒的な迫力に気おされたノリタは、それ以上反論することもできず、 「ないです」  ひと言口にしてうなだれた。 「よろしい」  笑顔に戻ったお母さんはそう言うと、答案用紙を折りたたんでエプロンのポケットにしまった。 「じゃあ、すぐに部屋に戻る。それから宿題よ」 「はぁい」  ふてくされたノリタはランドセルを手にのろのろと立ち上がった。 「時々見に行くから、サボっちゃだめよ」  お母さんはそう釘を刺してから、キッチンの方へと姿を消した。  うらめしげにその背中を見送ってから、ノリタはしぶしぶ自分の部屋へ向かおうした。ところがそのとき、ソファの上にいたダイキチの姿がふと目にとまった。  丸まって寝ていたはずのダイキチは、頭だけを持ち上げて彼のことを眺めていた。その表情が、ノリタにとってはまるで少し笑っているように思えた。 「なんだよ、こいつめ」  母親に聞こえないよう、押し殺した声でそう言うと、ダイキチの頭をゲンコツで小突いた。 「フギャッ」と飛び上がった三毛ネコは、尻尾を巻いてリビングから逃げ出していく。  それを見届けたノリタは「フン」と満足げに鼻で笑うものの、これからやらなければならない宿題のことを思い出し、肩を落としてだらだらと歩き出した。
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