▄︻┻┳═一   一発目     ≫【四季の始まり】

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 (さわ)がしい街とは正反対(せいはんたい)(おごそ)かな雰囲気(ふんいき)のあるマンション。ここが私の家だ。フロントには二十四時間三六五日、黒いスーツを着たスタッフの人がいる。庶民(しょみん)高級(こうきゅう)ホテルと勘違い(かんちがい)してしまうほど設備(せつび)充実(じゅうじつ)している。  ポストに入っている手紙の束を手繰(タグ)り寄せて持ち帰る。手紙といってもチラシしかないようだ。  エレベーターを待っていると、清掃員のおばさんが話しかけてきた。 「お(じょう)さん、これよかったらもらって。差し入れらしいんだけど私食べれなくって」  渡されたのはマカロン。押しつけるように渡されたが、別に断る理由もなく素直に受け取る。  そこにちょうどよくエレベーターがきた。ドアが閉まる瞬間、おばさんと目があったので軽く会釈(えしゃく)した。  右手にはチラシ、左にはマカロン。エレベーターの角に身をあずけて、ぼんやりとカウントアップを眺める。  二十四階のランプがともりエレベーターが止まる。周りにはだれもいなく外の雑音すら聞こえない。右手のチラシを左手で持ち、カードキーをポケットから取り出す。ドアの鈍い金属音が廊下に響く。  やっと家についた。面倒事(めんどうごと)があったのも理由だけど、プライベートな空間にほっとしている自分がいる。 「ただいま」  もちろん返事(へんじ)はない。ここにひとりで住んでいるからだ。1LDKのバルコニーつき。家賃(やちん)想像(そうぞう)にお任せする。  リビングにあるのはテーブルとソファ、そして空気清浄機とベッド。料理はしないし、ゲームや音楽の趣味もない。ゆえに暮らすうえで必要最低限な物しか置いていない。この部屋に対して無機質(むきしつ)やら退屈(たいくつ)とも思ったことはない。なにもない。  もらったマカロンと手紙をテーブルに置き、ため息まじりにソファに座る。  そしてくじ引きのようにチラシを手に取り、ひとつひとつ中身を確認する。  新しい化粧水のチラシ、専門学校の勧誘(かんゆう)、クーポン券などどうでもいいものばかりだ。  そして最後のひとつ、大学のオープンキャンパスの案内の中に白い紙切れが入っていた。名刺(めいし)ほどの大きさで、普通の人なら印刷ミスか間違って混入(こんにゅう)した物と考えるだろう。  いつものようにジッポーを取り出し、直接(ちょくせつ)火があたらないように下から炙った。するとただの白い紙切れは次第に意味を持ち始めた。 “K”  紙切れに浮かんだのはその文字だけだった。 「了解」  私はさっそく服を()いだ。 『夕飯までに帰ってくるからな』 『パパいってらっしゃい』 『気をつけてくださいね』 『もちろんだとも、それじゃ——』  時計の針は夜の十時過ぎを指している。私は布団(ふとん)にくるまって寝ていた。変な夢のせいだろうか、少し頭痛(ずつう)がする。  体を起こしてベッドに座り、リモコンで部屋の電気をつける。相変(あいかわ)わらずなにもない部屋。ピッという音でさえ響きそう。  スマホの充電(じゅうでん)が九十六パーセント。今日は特に使ってないから減ってなかった。ベッドの横にはサイドテーブルがあり、役目を待っている充電ケーブルが写真立ての前に置かれていた。  その写真を見て少し眠気が覚めた。  下着(したぎ)しかつけていないとはいえ、やっぱり今日は冷える。完全に目を覚ますためにシャワーを浴びる。  火照った体が冷えないようにバスタオルで包み、ドライヤーで乾かす。(かがみ)に映る自分の目を見て少し視線(しせん)をずらす。()ずかしいとか自分が嫌いとかそういう意味ではない。ただ無関心なだけで、その動きもまばたきと同じだ。意味なんて持ちあわせてない。  髪を乾かし終わるとバスタオルを巻いたまま私室に向かう。この部屋を借りるときにベッドルームと説明があったが、あそこでは寝たくない。そういう意味でも改めて現実(げんじつ)に引き戻された私は冷たい廊下をスタスタと歩いていく。  ドアを開けると奥のほうに机があるのが見える。両端(りょうたん)にはクローゼットやダンボール箱など“仕事道具”で空間を圧迫(あっぱく)している。まるで屋根裏部屋(やねうらべや)物置(ものおき)のみたい。  バスタオルを洗濯カゴに放り投げクローゼットを開ける。パーティ用の高級ドレス、オーダーメイドのスーツ、ブランドのコート。どれもこれも私物だがすべて仕事のため。  その都度(つど)必要な物を買い、着こなす。高級品やブランド品にひかれはしないが、暗殺において有効なのは知ってる。そういう界隈の依頼がくるからだ。  適当に手前のドレスを引っ張り出す。黒ベースで胸元が大きく開いる。ワンポイントで金色の装飾(そうしょく)(ほどこ)してあるのが特徴だ。  (なん)なく(そで)に手を通して、次はメイクをする。今日は“あそこ”に行くし、目元を軽く整えて口紅だけ少し濃いめのものを使う。使い込まれた化粧(けしょう)ポーチから色を選んで取り出す。鏡で確認しながら仕上(しあ)げていく。小指で口紅をひいたら終わり。  手首を返して腕時計(うでどけい)を見る。そろそろ行かないと。  手提げの小さなカバンを持ち、マカロンを口に運んで家を出る。
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