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騒がしい街とは正反対で厳かな雰囲気のあるマンション。ここが私の家だ。フロントには二十四時間三六五日、黒いスーツを着たスタッフの人がいる。庶民は高級ホテルと勘違いしてしまうほど設備が充実している。
ポストに入っている手紙の束を手繰り寄せて持ち帰る。手紙といってもチラシしかないようだ。
エレベーターを待っていると、清掃員のおばさんが話しかけてきた。
「お嬢さん、これよかったらもらって。差し入れらしいんだけど私食べれなくって」
渡されたのはマカロン。押しつけるように渡されたが、別に断る理由もなく素直に受け取る。
そこにちょうどよくエレベーターがきた。ドアが閉まる瞬間、おばさんと目があったので軽く会釈した。
右手にはチラシ、左にはマカロン。エレベーターの角に身をあずけて、ぼんやりとカウントアップを眺める。
二十四階のランプがともりエレベーターが止まる。周りにはだれもいなく外の雑音すら聞こえない。右手のチラシを左手で持ち、カードキーをポケットから取り出す。ドアの鈍い金属音が廊下に響く。
やっと家についた。面倒事があったのも理由だけど、プライベートな空間にほっとしている自分がいる。
「ただいま」
もちろん返事はない。ここにひとりで住んでいるからだ。1LDKのバルコニーつき。家賃は想像にお任せする。
リビングにあるのはテーブルとソファ、そして空気清浄機とベッド。料理はしないし、ゲームや音楽の趣味もない。ゆえに暮らすうえで必要最低限な物しか置いていない。この部屋に対して無機質やら退屈とも思ったことはない。なにもない。
もらったマカロンと手紙をテーブルに置き、ため息まじりにソファに座る。
そしてくじ引きのようにチラシを手に取り、ひとつひとつ中身を確認する。
新しい化粧水のチラシ、専門学校の勧誘、クーポン券などどうでもいいものばかりだ。
そして最後のひとつ、大学のオープンキャンパスの案内の中に白い紙切れが入っていた。名刺ほどの大きさで、普通の人なら印刷ミスか間違って混入した物と考えるだろう。
いつものようにジッポーを取り出し、直接火があたらないように下から炙った。するとただの白い紙切れは次第に意味を持ち始めた。
“K”
紙切れに浮かんだのはその文字だけだった。
「了解」
私はさっそく服を脱いだ。
『夕飯までに帰ってくるからな』
『パパいってらっしゃい』
『気をつけてくださいね』
『もちろんだとも、それじゃ——』
時計の針は夜の十時過ぎを指している。私は布団にくるまって寝ていた。変な夢のせいだろうか、少し頭痛がする。
体を起こしてベッドに座り、リモコンで部屋の電気をつける。相変わらずなにもない部屋。ピッという音でさえ響きそう。
スマホの充電が九十六パーセント。今日は特に使ってないから減ってなかった。ベッドの横にはサイドテーブルがあり、役目を待っている充電ケーブルが写真立ての前に置かれていた。
その写真を見て少し眠気が覚めた。
下着しかつけていないとはいえ、やっぱり今日は冷える。完全に目を覚ますためにシャワーを浴びる。
火照った体が冷えないようにバスタオルで包み、ドライヤーで乾かす。鏡に映る自分の目を見て少し視線をずらす。恥ずかしいとか自分が嫌いとかそういう意味ではない。ただ無関心なだけで、その動きもまばたきと同じだ。意味なんて持ちあわせてない。
髪を乾かし終わるとバスタオルを巻いたまま私室に向かう。この部屋を借りるときにベッドルームと説明があったが、あそこでは寝たくない。そういう意味でも改めて現実に引き戻された私は冷たい廊下をスタスタと歩いていく。
ドアを開けると奥のほうに机があるのが見える。両端にはクローゼットやダンボール箱など“仕事道具”で空間を圧迫している。まるで屋根裏部屋が物置のみたい。
バスタオルを洗濯カゴに放り投げクローゼットを開ける。パーティ用の高級ドレス、オーダーメイドのスーツ、ブランドのコート。どれもこれも私物だがすべて仕事のため。
その都度必要な物を買い、着こなす。高級品やブランド品にひかれはしないが、暗殺において有効なのは知ってる。そういう界隈の依頼がくるからだ。
適当に手前のドレスを引っ張り出す。黒ベースで胸元が大きく開いる。ワンポイントで金色の装飾が施してあるのが特徴だ。
難なく袖に手を通して、次はメイクをする。今日は“あそこ”に行くし、目元を軽く整えて口紅だけ少し濃いめのものを使う。使い込まれた化粧ポーチから色を選んで取り出す。鏡で確認しながら仕上げていく。小指で口紅をひいたら終わり。
手首を返して腕時計を見る。そろそろ行かないと。
手提げの小さなカバンを持ち、マカロンを口に運んで家を出る。
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