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◯
夜になっても静まることを知らない新宿は大人たちで賑わをみせる。あちらこちらでキャッチや酔っ払いの声が聞こえた。おそらくだれひとりとして私を未成年と思わないだろう。
今日は運がよく、まだだれにも声をかけられていない。酔っ払いや営み目的の男と話すのは七面倒くさい。絡まれるまえに先を急ぐ。
風俗街を抜け、細い路地を通り、建物の階段をくだる。まるで秘密基地のように普通の人には到底たどり着けない場所にそれはある。
“Kalmia”
それは私が目指していた会員制バー、カルミア。ドアの前に立つとカギが開く音がした。そのままドアノブを回して中へ入っていく。
「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」
カウンター席とテーブル席があるこのお店はレトロな内装で、部屋に流れるレコードがその雰囲気を醸し出している。カウンターの右から三番目が私の定位置。
白髪で眼鏡をかけているこの人がカルミアのマスター。歳は教えてくれないが見た目や執事のような話しぶりからして相当いってると思う。
店内は私とマスターだけだった。マスターはレコードをB面に変えた。
「ホワイト・レディで」
「少々お待ちください」
年季の入ったシェイカーを取り出すと手際よく作りはじめた。
ホワイト・レディはドライジン、ホワイトキュラソー、レモンジュースをそれぞれ二対二対一の割合で入れ、氷とシェイクしてできるカクテルのことだ。
氷の気泡のような白い濁りは照明に照らされると宝石のように輝き出す。アルコール度数も高く、目でも舌でも楽しめる一品だ。
「お待たせしました」
さっそくグラスを手に取り、その縁に口紅をつけた。
「マスター、これ……」
「どうかなさいましたか」
うつむきながら小刻みに震えた。耐えきれない感情がそうさせる。
「……じゃん」
「はて?」
拳を強く握ったせいでグラスが割れてしまいそう。マスターは聞き取れなかったらしく、耳を傾けていた。
それならと大きくゆっくり息を吸って……。
「これレモネードじゃん!!」
出されたのは黄色い半透明の液体。酸味と甘味がちょうどいいレモネード。グラスもトール・グラスで幼稚なストローまでついていた。
大声で文句をいったのにもかかわらずマスターはいたって冷静で、聞き流すような笑いをこぼしていた。そしてなにごともなかったようにグラスを拭いている。
「リリィ様はまだ未成年でございます。ここは日本ですよ」
「七面倒くさい」
不貞腐れた私は頬杖をついて幼稚なストローでちびちびと飲んだ。
その間もマスターは執事のような微笑ましい顔をしている。
「こちら“おつまみ”でございます」
そういって目の前に一通の手紙を差し出してきた。白い入れ物には“青い蝋”で封がされている。シーリングスタンプだ。
物珍しさも感じず、すんなりと開けると中には紙が入っていた。真っ先に目に入ってきたのは一〇〇万という数字だった。ざっと目を通してテーブルに置く。そして人差し指で優しく唇に触れてそのまま紙の末端に押しつけた。
紙を戻してにこやかなマスターに返した。
「今回の報酬、やけに少なくない?」
「獲物が獲物でしたので」
一〇〇万円という数字に納得はしてるがどこか腑に落ちない。元はもっとあたろうに、私が所属している“組織”にいくらか持っていかれたのだろう。こうして暗殺業ができるのもその組織のおかげだし、いまさら文句はいえないのだけど。
ちょうどそのころ、店内の音楽が止まった。静かな空間にはカランッと氷が溶ける音とチックタックと鳴る古時計の音色のみが広がっていた。
「それで? これだけじゃないでしょ」
「さすがリリィ様。察しがよろしいですな」
新しいレコードを準備しようとしたマスターを呼び止めた。ニヤリと笑ったのが背中からでも伝わってくる。
手際よくレコードに針を落とすと、怪しく振り向いた彼の手にはまたも手紙が握られていた。今度は“黄色い蝋”で封がしてある。
無言で手渡され、怪しみながらも中を確認する。その際、マスターはもったいぶるように説明をした。
「あの方から直々に命令を受けました。手はずはすでに整っております。明日には荷物が届くことでしょう」
「特殊な物資が必要ってこと? イエローだから諜報かな」
「リリィ様には高校に通ってもらいます」
「え?」
そんなバカな。おそるおそる中身を確認すると、そこには大きく“東京都立八重桜高等学校入学の手続き”と書かれている。
マスターがいったことは正しく、書類にはすべての手続きが完了していることが記されていた。あとは登校するだけとのこと。
マスターのほうを見ると、私を嘲笑ってピエロのような顔をしている。
「し、七面倒くさい……」
このときはまだ、これが世界の均衡を崩すトリガーになるなんて思いもしなかった。私が高校に通うこと自体が。
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