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◯
「それじゃあお兄ちゃん、行ってくるね」
海とはここでお別れ。空いているカバンを揺らして友達と仲良く歩いていく。妹を見送ると、自転車にまたがり坂を一気にくだった。俺の通う高校は少し離れたところにあるため自転車がマストだ。
角を曲がり、橋を渡ると平坦な道になる。入学当初を思い出し懐かしく感じる。心がそわそわする。春というのはそれだけで明るいのに今日はなんて賑やかなんだろう。
そんな春の陽気を感じながら先を急ごうとしたとき、ひとりの男の子が目に入った。小学校低学年くらいだろうか、地面に座り込んで泣いている。なにごとかと思い、自転車を停めて声をかけた。
「どうしたの?」
「走ってたらね、お膝をね……ぐすっ」
涙ながら事情を説明してくれた。転んで膝をすりむいたらしい。足元を見ると真新しい靴が脱げて転がっていた。新学期にあわせて少し大きいのを買ったのかもしれない。
俺も小さいころよく転んでいたから、昔の俺とこの子の姿を重ねてしまう。泣いている子どもを目の前に懐かしんでいるのもどうかと思うけど。
このままではかわいそうだし、応急処置だけでもしておこうか。本当は傷口を洗ってからがいいが物がない。とりあえず軽くティッシュで拭いて絆創膏だけでも貼っておく。ないよりはマシだと思う。
「これでもう大丈夫だ。学校着いたら保健室でちゃんと消毒してもらうんだぞ」
泣き止んだ男の子はお礼をいうと、元気に手を振って学校へ向かった。揺れるランドセルを見ながら一件落着と満足げに息を吐く。
おっと危ない、こんなところでゆっくりしている場合じゃなかった。早く学校に行かないと新学期早々遅刻してしまう。カバンを背負い自転車に足をかけたそのとき、突然声をかけられた。
「空ちゃんじゃない、いいとこにいたわ」
それは知り合いのおばさんだった。軽く挨拶して話を聞いた。荷物を車に乗せるの手伝ってほしいとのことだった。
見た感じ重そうな段ボールがいくつもあった。力仕事は得意ではないが困っている人を放って置けない。朝から汗をかいてせっせと荷物を運ぶ。
ひと仕事終えるとおばさんがお礼にとお茶をくれた。堪らず乾いた喉に流し込むと生き返ったようにため息をした。おばさんはそのまま車へ乗り込み、俺は車が角を曲がるまで見送った。俺も学校へ急ごう、今ならまだ間に合う。
意気揚々と走り出した俺は信号を渡るおじいさんの手を取り、財布を落とすドジなお兄さんを追いかけ、迷子の女の子を交番に連れていった。
あれ、なんか先に進めない……。急ぐ体に反して偶然に偶然が重なる。学校があるにも関わらずあちらこちらに困っている人がいる。それを見逃せない性格が仇となって助けてしまう。
時間はあっという間に過ぎ、辺りを見渡したが制服を着た人はひとりもいなかった。まだ半分程度しかきていない。急いで自転車を漕いでいると、近くの学校のチャイムが聞こえた。その瞬間俺は遅刻を確信した。
制服のネクタイを緩めて汗だくになった体を冷やす。大きくため息をついた俺の足は漕ぐのをやめている。
「俺ってなんでこんな性格なんだろう。まあみんなの役に立てて嬉しいけどね」
ゆっくりと景色を眺めるように漕ぎ始めた。いつのも景色に変わりはないが、春というだけでひとまわりもふたまわりも懐かしみが大きく感じる。高校一年のときはよく道間違えてたなと思い出に浸った。そしてある場所で自転車を故意に止めた。
大東橋
ここは俺が好きな場所だ。この時期になるとソメイヨシノが狂い咲き、お花見をする人もいる。下に流れる神田川が心地いい音色を出している。
ひらひらと舞った花弁は俺の手の甲に乗った。まるで桜も歓迎しているように葉音を響かせる。学校に行って勉強するよりもここでお花見していたい。
“キーンコーンカーンコーン”
二回目のチャイムが鳴ってしまったらもう仕方がない。諦めて学校へ行こう。自転車にまたがり、重いペダルを回しだす。諦めという優越感と罪悪感に心が遊ばれそう。
俺は名残惜しそうに桜を眺めているとふと人影が目に入った。
そして俺はとっさに自転車のブレーキをかけた。
着ていた制服は間違いなくうちの学校のやつ。彼女はフェンスにもたれかかって、手を伸ばし桜を眺めていた。それは表情こそ見えないが、枝一本一本に話しかけるように優しく触れているのが伝わってくる。
しかしその桜は枯れ木だ。いや……微かに蕾がついている。時期に間に合わなかったのだろうか、とても寂しそうにしている。
彼女はなぜその桜の木を見ているのだろうか、なぜ学校に行かないのか、いったいだれなんだ。そうやって彼女と老いた桜の木を見ていたそのとき、突風が吹いた。
堪らず目を閉じた。砂が混じり目が痛くて開けられない。
目を優しく擦りゆっくり開けるとそこには彼女が、“景色”があった。
彼女を包むように舞いあがる桜の花弁。
微動だにしない彼女のなびく髪。
精霊の戯れで不規則に動く桜。
まるで俺と彼女が同じ存在ではないと暗示しているように現実味を帯びていなかった。こんなにも心を奪われたのはいつぶりだろう。少し胸が苦しい。
彼女は不意に小麦色の髪をかきあげて俺のほうを向いた。その目は吸い込まれるほど綺麗な青色で、つい見惚れてしまった。
じっと見つめてくる彼女にこっちが恥ずかしくなった。視線をそらすように大慌てで自転車に乗った。
頭の中にこびりつく“景色”は鮮明なものだった。後ろを振り返ってみたがそこに彼女はいなかった。
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