episode.1 あじさいに抱かれて

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 焼けたバターの匂い。  小麦の匂い。  とけた砂糖の匂い。  いつもと変わりがないとは思うのだが、そこには何か複雑な感情のきざしのようなものがある。自分のものではない、遠くから、空耳のように、夢のように囁き、訴えてくる。  きさらぎはしきりにまばたきを繰り返した。  フォークを持った手をテーブルに下ろす。  胸の下からゆっくりと水位が高まるように、激しい眠気がこみ上げる。うつむき、深く呼吸する。もうまぶたを開いていられない。 「きぃちゃん、眠っちゃだめよ」やよいが言った。「いくらなんでも寝るにはまだ早すぎるんじゃないかな」貴臣が言う。  きさらぎは眠気を振り切るように何度も首を振った。しかし振り払おうとすればするほどからみついてくる蜘蛛の巣のように、睡魔はきさらぎを絞めつける。 「……眠い」  目の前の皿を腕で押しやり、そこへ頭を落とす。ことん、と音を立てて打ち付けた額の痛みも眠気を覚ますのには役に立たなかった。 「きぃちゃん」  やよいの声を最後に聴覚も閉じられる。  何も見えず、何も聞こえず、軽い麻痺のような無感覚の眠りに、きさらぎは落ちた。
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