episode.2 傷ついた訪問者

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 エントランスポーチを出て明け方の白い空を見上げ、友美は傘を開いた。  今日は一日中雨だろうかと思う。静かに降る雨だが単調に小さな音で傘を叩く。湿りきった空気の中でパン工場のにおいは、塗り込めたように辺り一帯に漂っている。  バターと小麦粉の焼けるにおい。とける砂糖とミルクのにおい。  穏やかで平凡なそのにおいは限度を超えると暴力的になるのだと友美はここで知った。夜勤パートタイムで働き始めて一年になる。最近になってようやくこのにおいに吐き気を感じなくなった。  友美の横をマイクロバスがゆっくりと通り過ぎる。曇ったウインドウの向こうに友美と同じように夜通し工場で働いていた人たちが乗っていた。若い人も何人かいたが、今年二十八歳になる友美の母親ほどの年齢の中高年の女性が多い。中東や南米からの外国人も多い。みんな疲労と眠気で黙り込んでいる。冬の間は友美もそのバスの中にいたのだ。暗いうちからひとり歩きさせて何かあったら困ると総務係に言われていたためだった。友美の住むアパートは乗って数分で着いてしまうほどの距離にあったから、初夏になり日の出が早まると、バスでの送迎を断った。  初老の気さくな運転手は「乗っていかないのかい」と言うように傘の下の友美の顔をのぞきこむ。友美はいつものように会釈をして遠慮することを伝える。運転手は軽くクラクションを鳴らし、門を走り抜けていった。  方向指示器のかちかちという音と赤い点滅がブロック塀の向こうに消えていく。
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