episode.2 傷ついた訪問者

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 歩くことは苦ではなかった。消毒液のシャワーを浴びた全身白ずくめの人間たちがあわただしく行き交い、たえず機械の作動音が鳴り響く作業場の喧騒が、朝の空気のなか十分足らずの時間を歩くことで徐々に遠のき、わずかずつでも疲弊を薄めてくれる。少なくとも消毒液とパンのにおいのしみついた人たちのひしめくバスの中に閉じ込められるよりはましだ。  無人の守衛室の前を過ぎ、門を出る。傘からしたたる雫が黒く湿るアスファルトの上に跳ね上がるのを見つめながら歩く。通いなれた道は前方に特別な注意を払わなくても無意識のまま辿ることができる。布製のスニーカーはつま先をすっかり濡らし、黒ずんだ染みを広げている。立ち通しだった友美の足はつま先の不快感にも鈍感になっていた。  建物が途切れ、畑の向こうに見通せる県道に警察車両があった。  夜中、事故があったと工場の社員が言っていた。気を付けて帰るようにと言葉少なに、パートタイマーたちに声を掛けた。事故車両はもうなかった。救急車もない。事故処理は終わったのだろう。  明けたばかりの朝は垂れ込める雨雲のせいでぼんやりと青白く、明度センサー付きの街灯はまだ点いていた。ワンブロック先のごみ置き場に数羽のからすが舞い降りた。友美が近付いても飛び立つことなく、ただ無関心にポリ袋の上を渡り歩く。始めも終わりも察知させない確固とした雨は、手付かずの朝の空気をどこまでも透明にしていた。  もうすぐ人々は起き出して、世の中は動き始めるだろう。そして空気は街の活気に汚されていくのだ。入れ替わりに友美は眠りにつく。カーテンを閉め切った殺風景なアパートの部屋で。安手のカーテン生地はそれでも友美を眠らせるくらいには昼間の光を弱めてくれるはずだ。今日はなんとか眠れるかもしれない。パンのにおいは友美の部屋にまでかすかに忍び込んでいるだろう。  ひび割れたアプローチにできた大きな水溜りを越え、アパートの外階段の庇の下へと飛び込んだ。  誰かがいた。
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