第2部 13 降伏

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 一ヶ月後、由美は宇田川町のライブハウスにいた。  ツアーの合間に一日だけ帰国した柏木が、タケさんと二人で“緊急煽動装置”として、一夜限りのライブを行うことになっていた。  そのことを“the Yellow Clowns”のホームページで知った由美は、後方の壁にもたれながらライブが始まるのを待っていた。  ライブは、元々予定していたイベント終演後にフリーライブとしてねじ込まれたものだったが、最後のバンドのライブが終わっても、誰一人帰ることはなく、むしろ客数は増えていた。  ステージには幕が張られ、セッティングの様子は見えない。けれども、スネアやギターが鳴らされる度、客席からは歓声が上がる。  全く音が鳴らなくなり、5分ほど経ってから、客電が落ちる。  暗闇の中、スティックでカウントを刻む音が聞こえ、マシンガンのようなドラムの演奏が始まる。  会場の空気が一変する。  一瞬で人々の感情を剥ぎ取る演奏。音に撃ち抜かれる。しかし、それに喜びを覚える。  幕が開き、照明が点く。一気に客が前方へ移動する。柏木はハーフパンツにTシャツの格好で、前傾姿勢で頭を振りギターを掻き鳴らしている。  演奏は変わらない。二人が楽曲を演奏するのは6年ぶりのはずだが、耳が、指が身体が、忘れていない。いや、忘れたくても忘れられないのかもしれない。  以前のステージと違うのは、二人の前にマイクがあること。  二人が歌う。  その瞬間、ライブハウス全体が失意に覆われたのが、由美にもわかった。  貧弱な声。カツが体現していた獰猛さが欠けた演奏は、歯牙を失った狼のようだった。  楽曲の世界観が崩れ落ちていくのを、その場にいる誰もが感じた。  二人はアルバムの曲を最初から順番に演奏していく。  曲間も、水を飲むだけで、すぐに次の曲の演奏を始める。  ライブを見ながら、由美はなぜ柏木がこのライブをしようと思ったのか考えた。  惨めなライブになることはわかっていたに違いない。にも関わらず、決行した理由は何か。  最初は前方で盛り上がり、身体を動かしていた人の数は徐々に減り、誰もいなくなった。聴衆は、由美同様、このライブの理由を探すように演奏を続ける二人を棒立ちで見つめていた。  アルバム最後の一曲を前に、二人は初めて長い休憩を取った。  タオルで腕と顔を拭く柏木。Tシャツには汗がぐっしょりとしみこんでいた。残っていたペットボトルの水を全て飲んでからマイクの前に立った柏木は、ガラガラに()れた声で「次が最後の曲です」と伝える。  柏木はギターをスタンドに置くと、ドラムの方を向く。新しいスティックに持ち替えたタケさんがカウントを始める。  最後の力を振り絞るかの如く激しいリズムを刻むドラム。アルバムの最後は『原子』という曲で、うねるようなドラムとカツの咆哮がぶつかり合いながら、最後は一体となり、昇り詰めたところで終わりを迎える楽曲だった。  柏木は、スタンドから取ったマイクを両手で掴み、うずくまりながら歌う。  完全にドラムに負けている。それでも構わず叫び続ける。  タケさんもドラムを叩きながら叫ぶ。それでも、カツの叫びには遠く及ばない。  曲の最後は、長い咆哮で終わる。二人は必死に叫び続けた。曲が終わる。すると、タケさんはもう一度同じパートを繰り返し、もう一度二人は叫ぶ。今度こそ終わりかと思うが、更に繰り返す。  二人が最終パートを何度も繰り返す内、客席の一部から叫び声が上がる。もう一度、その声が少し大きくなった。もう一度。その声はもっと大きくなる。もう一度。さらに大きく。もう一度。また声が増える。もう一度。まだ増えた。もう一度。ほとんど会場にいる全員が叫んでいた。 「もういい。もう止めてくれ」  そう伝える代わりに皆が叫んでいた。そして、今度こそ本当に曲が終わる。  戸惑いがライブハウス内に流れる。  柏木はステージに突っ伏し、タケさんも頭を下げたまま、椅子から立つことができずにいる。ふらつきながら立ち上がった柏木が、ドラムに近づく。二人は軽く抱き合うと、お互いの肩を貸しながら、ステージ袖に消えていく。  身体中から湯気を立ちのぼらせた二人の顔は、生気が抜けきっていた。けれども、その表情は安らいだものだった。  二人がステージを去るまでの間、起きていたまばらな拍手が止み、客電が点く。アンコールの声は聞こえなかった。聴衆は、湯気の立ちこめるステージを見つめた後、誰一人談笑することなく、出口から出ていく。  由美は誰もいなくなったステージを見つめながら、柏木がこのライブを行った理由について、もう一度考えた。  柏木はきちんと終わらせたかったのだと思う。そして、それはドラムのタケさんも同じだったのだろう。“緊急煽動装置”という二人にとって大切なものであり、それゆえに離れられないものを。 忘れるためではなく、これからも共に生きていくための葬式――由美はそう結論づけると、階段を上り、外に出る。  夜風が由美の身体を冷ます。  駅に向かいながら、由美は改めてライブ中の柏木を思い出す。  その姿に、由美は柏木の決意を見た気がした。これからも音楽の混沌の中を彷徨い続ける。それこそ自らの全てを賭けて。そんな裸の覚悟が現れていた。その姿を由美は儚く思った。  携帯電話が震える。柏木からだった。  画面を見つめる。由美が話したいことは何もなかった。だが、柏木に何かあって、この電話をかけてきたのであれば、由美は聞こうと思った。  由美は通話のボタンを押し、携帯電話を耳に当てる。
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