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第2部 4 出馬
その日の晩、由美は柏木の部屋で原稿を書いていた。
初稿の完成まであと少し。由美は伸びをしながら時計を見る。
23時45分――恐らく近所の作業部屋にいる柏木の帰りは、早くても明け方、遅い時は帰ってこない。
コーヒーをおかわりしようと立ち上がった所で、テーブルの上に置いてあったプライベートの携帯電話が震える。
ディスプレイに表示された番号は、連絡先として登録せずとも絶対に忘れることはない番号だった。
由美は出るか迷った。だが、時間が時間なだけに、至急の用件かもしれず、通話のボタンを押す。
――もしもし
――もしもし、由美?
母だった。
――どうしたの? こんな時間に
――この時間だったら、あなたの仕事の迷惑にならないと思って
――そう、気遣ってくれてありがとう。で、どうしたの?
――あのね……
言いかけたところで、黙り込む。
悪い予感しかなかった。
――どうしたの?
由美の問いかけに、燕はおずおずと口を開く。
――相談したいことがあって
――何?
――でも、電話じゃ言えない
――どうして? また父さんのこと?
母が黙る。沈黙が答えだった。
――そう……それとあなたのこと
――また縁談? それとも、とうとうお父さんと離婚でもしようかと考えた?
――そうじゃなくて
――じゃあ何?
――あのね……、と言いかけたところで再び黙った燕は、
――やっぱり電話じゃ言えない。明日か明後日にでも会うことはできない? と尋ねる。
――母さん、私だって忙しいの
意に沿わない返事には黙り込む母に「ズルい人だ」と由美は思う。
――いくら電話じゃ話せないような事だとしても、少しでも聞いておかないと会ったところで何もできないでしょう
由美が続ける。
――父さん、出馬するかもしれない
母の言葉に、由美は絶句する。
「出馬?」「今更?」「あの身体で?」「何のために?」
次々と湧き上がる疑問。その中の一つを尋ねる。
――あの身体で出馬するつもりなの?
――そうみたい……
――今更、出馬してどうするの?
――わからない
――止めないの?
質問したものの、答えはわかっていた。
――そんなことできるわけないじゃない
――私にも無理。一度あの人が決めたことを止めるのは。あの人の耳は、人の話を聞くためじゃなくて、怒った時に紅くして、相手を威嚇するためのものだから
――でも、指摘できるのは、あなたしかいないでしょ?
その言葉は間違いだ。私しかいないのではなく、私以外いなくなったのだ。
由美はため息をついてから、
――母さんも出馬を止めさせたいのよね? と尋ねる。
――ええ
――じゃあ私が言ったら力を貸してくれるのよね?
黙り込む燕に、――ねえ? と念押しする。
燕は渋々といった様子だったが、――ええ、と答えた。
――じゃあ何とか明日の午前中に都合をつけて行く
その言葉を聞いた母は、まるで全て解決したかのような口調で、――あなた相変わらず忙しいの? と尋ねる。
由美は、母の変わりように唖然としつつ、
――母さんは私が何してるか知ってる? と問い返す。
――あなたは週刊誌の記者でしょ?
――そうだけど、例えば、去年私が本を出したこととか?
――そうだったの?
――変な取材とかこなかった?
――さあ。田村さんなら知っているかもしれないけど
――そうね、と答えた由美は、電話を切ろうとするが、
――あなたちゃんと食べているの? と言う母に会話を続ける。
――母さん、たまに電話してきても、用件が済むとその話しかしないけど、娘に対して他に訊くことはないの?
――例えば?
――そうね……、と由美は考えたが、母に聞いて欲しいことなどなかった。
昔から母に言うと、何も考えずに口にして、和昌の耳に入るや否や、収まるものも収まらなくなるのが常だった。
――まあいいわ、と答えた由美は、――じゃあ明日の朝、適当な時間に行くようにするから、と伝え、時間が時間なので、――おやすみなさい、と言うも、言い終わる前に電話は切れた。
由美は携帯電話を見つめる。
この人はいつもこうだ。
いい意味で、マイペース。悪い意味で、自分勝手。
我が母ながら、「いい母親」とは思えなかった。
我が子への愛情は深い。だが、あくまでそれは母にとって都合の良い部分だけだ。
由美は携帯電話をテーブルに置き、スリープ状態のパソコンを見つめる。
今日はこれ以上書く気が起きなかった。
佐伯家が絡むと、いつも調子が狂ってしまう。
由美はパソコンをしまってから、洗面所で歯を磨く。
「出馬か……」
玲の死があったとはいえ、想定外だった。
由美がそう考えたのは、幼い頃に和昌と交わした会話を覚えていたからだ。
小学校三年生の時、親の仕事の話を聞いてまとめるという宿題が出た。
その日の夜、珍しく早い時間に家にいた和昌に宿題のことを話すと、上機嫌だったのか「いいだろう」と応じてくれた。
「まずは仕事の名前から」
由美の問いに「国会議員」と答えると、和昌は“議員”の書き方を由美に教えた。
書き終えた由美は、学校から渡されたプリントに従い、質問を始める。
「どんな仕事ですか?」
「この国に住む人々の生活がうまくいくためのルールを決めること」
「ふーん」
「父さんの言ってることわかるか?」
「うん。みんなのためにする仕事ってことよね」
「そうだな。できるだけ多くのみんなのためにする仕事だ」
由美はプリントに書き留める。
「じゃあ次。この仕事をしていてよかったと思う点はありますか?」
和昌は深く考える様子を見せてから「あまりそう思うことはないな」と答える。
「みんなから『先生』って呼ばれているのに?」
「色々な人が父さんを『先生』と呼ぶのは口癖みたいなものだ。本当に『先生』と思っているわけじゃない」
「どうして?」
「それは由美が今言った『どうして?』と同じようなもので、父さんに何かをお願いしようと思った時、彼らは『先生』と呼ぶんだ」
「じゃあお父さんはどうして国会議員という仕事をしてるの? 楽しくないんでしょ?」
「その通り。楽しいものではない」
和昌は認める。
「でも、由美にはまだわからないだろうが、社会には誰もやりたがらないけど、誰かがやらなくちゃいけないことがあるんだ」
「わかんない」
「だろうな」
和昌は由美の目を見て、笑みを浮かべた。
「じゃあ、この仕事をしていて大変だと思う点は何ですか?」
「さっき父さんの仕事は『できるだけ多くのみんなのためにする仕事』と言ったな?」
由美は頷く。
「でも、実は全ての人々のためになるルールは存在しないんだ」
「えー」
由美は驚きの声をあげる。
「でも、道徳の授業で、『道徳は、みんなが協力し合って生きていくために守らなくちゃいけないルールです』って、先生言ってた」
「道徳はそうかもしれないが、父さん達が決めているルールは違うんだ」
「どういうこと?」
由美は和昌の顔を見つめる。
「そうだな。例えば……」
そう言った和昌は、テーブルの上にあったウイスキーの入ったグラスを手に取ると、「このグラスに穴が空いたらどうなる?」と由美に訊ねる。
「お酒がこぼれる」
「そう。だから、父さん達は、お酒がこぼれないようにこの穴を塞ぐ。でも、それを塞ごうとする間に、今度は別の穴が空いてしまう。父さん達は、それも塞ごうとする。するとまた……この繰り返しが父さんの仕事だ」
「穴を同時に塞ぐことはできないの?」
「難しい」
「穴が空かないようにするのは?」
「それもできない」
「どうして?」
「そんなルールは存在しないからだ」
「そうなの?」
「そうだ」
和昌と目が合う。その眼差しは、厳格でありながらも優しかった。
「最後。この仕事をする上で一番大切なことは何ですか?」
和昌はグラスを手に取り、ウイスキーを一口飲んでから、
「自分の足で立てることだ」と答える。
「自分の足で立てる?」
繰り返す由美に、和昌は小さく頷く。
壁時計の秒針の音が聞こえた。
「それが一番大切なこと?」
「ああ。堂々と姿勢良く立ち続ける。それがこの仕事で一番大切なことだ」
「私にもできる?」
「今のままじゃ駄目だな。もっと大きくなって、ちょっとやそっとじゃ倒れないくらいにならないと」
「じゃあお姉ちゃんくらいだったら?」
「お姉ちゃんの年齢じゃまだ無理だけど、お姉ちゃんくらい背が高くて姿勢が良ければなれるかもしれない。由美は国会議員になりたいか?」
「わかんない」
「そうか」と言った和昌が笑う。
ご機嫌だった。
「お父さんありがとう」
由美が立ち上がる。
「どういたしまして」
そう答えた和昌は、「早く寝なさい」と声を掛ける。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
あの晩の出来事は、和昌の優しさを見た数少ない思い出の一つとして、由美の記憶に深く刻まれていた。だからこそ、自宅階段から転落した和昌が政界引退を決めた時も、そこまでの驚きはなかった。
由美は柏木の帰りを待たずに、ベッドへ潜りこむ。
ドアを閉める前に見たあの日の和昌の後ろ姿を、由美は今でも鮮明に覚えている。
シワの入ったワイシャツ姿の背中は、とても大きく感じられた。
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