第2部 4 出馬

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 翌朝、由美は、実家の少し手前でタクシーを降りる。  タクシーが走り去るのを待ってから、門まで歩き、インターホンを押す。  解錠された通用門をくぐり、芝生の鮮やかな庭を横目に進む。 「お帰りなさいませ、由美様」  引き戸を開けると、田村さんがお辞儀をして待っていた。 「ただいま」  由美はヒールを脱ぎながら「田村さんは元気にしてた?」と尋ねる。 「はい、この通り」 「よかった」  心の底からそう思う。  由美が生まれる前からこの家にいる田村さんの働きぶりを見るにつけ、彼女のいない佐伯家はありえない。 「母さんは?」 「旦那様の付き添いで外出してます」 「朝から二人してどこに?」 「市立病院です」 「定期検診か何か?」 「リハビリです」 「リハビリ?」 「はい。リハビリのため、旦那様は毎朝必ず病院に行かれます。奥様はその付き添いです」 「いつからそんな熱心に?」 「昨年、玲様が亡くなった辺りからです」 「そんなに前から?」 「ええ」と頷く田村さんを見て、由美は、もっと早く言ってくれればよかったのに、と心の中で母を責めた。 「ところで、今日はどういったご用件で?」 「昨晩、母さんから電話があって。それで来たの」 「そうでしたか」 「田村さんは知ってた?」 「何をですか?」 「父さんが再出馬するつもりのこと」 「そうでしたか」  田村さんの表情を観察するが、感情の兆しすら読み取ることはできない。 「どう思います?」 「私は申し上げる立場にありませんから」  さすがの対応だった。 「母さん達が帰ってくるまで二階にいる」 「何か飲み物でもお持ちしますか?」 「気にしなくて大丈夫」と断り、由美は階段を上がる。  細く急な階段。和昌が転倒した後もリフォームすることもなく、昔のままだ。  階段を上ると、正面に窓がある。  幼い頃、玲も私もこの窓から屋根に出た。  二階に来たのは、家を出て以来だが、何も変わっていない。毎日田村さんが掃除しているのだろう。今、二階を使う者は誰もいないのに、廊下には塵一つ落ちていない。  廊下を進む。一つ目の部屋が由美の部屋だ。  ドアを開ける。  家を出た時のままだ。使わなくなった学習机、布団のないベッド、空っぽの本棚。  就職が決まってすぐ、由美は自分でマンションを探して、引っ越し業者を手配し、誰の手も借りずに部屋の荷物をまとめた。全ての荷物を運び出した時、この部屋には二度と戻ってこないと決めた。  立ち入ることなくドアを閉め、隣の部屋に向かう。  玲の部屋だ。ドアを開ける。  こちらは由美の部屋とは違い、何もかも残されていた。  玲が家を出たのは、由美が中学一年の時。一晩の間にほとんど身一つで出て行き、由美がそのことを知ったのは、翌朝の朝食の時だった。  カーテンを開ける。  隣家が見える。けれども、人の住んでいる気配はない。たしか5年ほど前から、夫婦で老人ホームに入っているはずだ。  玲はこの場所で何を感じていたのか。  ありきたりでないものを見たい、自分らしくいたい――そんな思いから、この部屋を出て行ったのではなかったか。それなのに、なぜ戻ってきたのか。  数多くの称賛と中傷を受け、最後は衆目の前で刺された。私よりもずっと遠くに行くこともできたし、多くを見ることも、手にすることもできたであろうに。  玲はどこに向かおうとしていたのか。  由美が思いを馳せていると、「おかえりなさいませ」という田村さんの声が聞こえた。  階段を降りる。  和昌が燕の手に支えられながら、靴を脱いでいた。  由美に気づいた和昌は、燕の手を払い、覚束ない様子で立ちながらも「来てたのか」とこちらを見る。 「母さんに呼ばれてね」  和昌が目線を燕に向ける。 「立ち話も何だし、とりあえず座って話をしましょう」  由美はそう言うと、応接室に向かう。  ドアを開けたところで振り返る。手すりに掴まりながら歩く和昌の姿が見えた。  由美は奥側のソファに座り、遅れて入ってきた和昌は、手前側に腰を下ろす。最後に入ってきた燕は、二人とは別のソファに座る。 「話とは何だ」  和昌が切り出す。 「再出馬するって聞いて」  和昌が目線を母に向ける。 「母さんは悪くないでしょ。家族として当然の心配をしたまでよ」 「お前こそ関係ないだろ。勘当されたくせに、こういう時だけ娘面(づら)か」 「去年、勘当した娘をいきなり呼び出して、『結婚する気はないか』と迫ったのは誰?」 「そんなこともあったな」 「もし『忘れた』っていうなら、身体だけでなく頭も働いてないようだから諦めなさい」  和昌が無言になる。 「そもそも今更復帰してどうするつもり?」 「まだ俺にもできることが――」 「ないから」  由美は即座に否定する。 「そこまで言わなくても」と口を開いた燕を、由美は非難を込めた目で見る。  視線に気づいた燕は黙って下を向く。  ドアがノックされ、田村さんが入ってくる。  それぞれの前に緑茶の入った湯呑みを置くと、一礼して部屋を出ていく。  一口啜った和昌が「それで、どうやって止めるつもりだ?」と訊ねる。 「例えば、『動き出した老害』って見出しはどう。『佐伯玲の再評価に乗じて、佐伯和昌が政界復帰を画策している』どこか一誌でもこう書いたら、後追いの記事がわんさか出て、あっという間に反対の世論が吹き荒れる」  由美の言葉に、和昌は身を乗り出し、今にも殴りかからんとする形相でこちらを見る。 「父さんが派閥に属さず、族議員にもならず、企業献金も受け取らない方針で、政治とカネに関してクリーンだった点は知ってるし、立派だったと思ってる。でも、世の中の大多数はそんなこと見ていない。メディアでの印象的な言動、それが全て」 「勝手にしろ」  吐き捨てるように言うと、和昌はゆっくりとソファから腰を上げ、足元を確かめながら部屋を出ていく。由美は、後ろ姿を眺めながら、和昌の背中が昨年よりも大きくなったように感じた。  ドアが閉まり、部屋の前からいなくなった気配を確かめてから、燕が口を開く。 「さっき言ってた記事、あなた書く気じゃ?」 「まさか。脅しただけ」 「そう。よかった」  燕は胸を撫で下ろす。 「でも、本気ね。あの様子だと」 「そうなのよ」 「リハビリの頻度を増やしたのはいつから?」 「玲ちゃんが死んですぐ、あなた一度だけ家に来たじゃない。あの後から」 「その時には出馬するってわからなかったの?」 「私も後で聞いたんだけど、あなたが来た後の最初の定期検診で、『俺はどうすれば杖なしで生活できますか』って先生に相談したんだって」 「それで?」 「病院から帰ってきてすぐ、田村さんに外出用の杖を捨てるように言い、私には『これから毎日病院に通うから付き添え』って」 「その時に言ってくれたら、止めることもできたかもしれないのに」  由美の言葉に燕は悲しそうな表情を浮かべる。 「私も杖なしで歩けることに反対してるわけじゃない。けど、それとこれとは別の問題でしょ」  そう付け加えた由美は、田村さんの淹れてくれたお茶を一口飲む。 「ねえ、由美ちゃん」 「何?」 「去年お父さんが言ってた話、考え直してみる気ない?」  由美は怒りで立ち上がりそうになるのを堪える。 「呆れた。よくそんな口がきけたね」  由美の険相から失言に気づいた燕は黙り込む。 「困った時も、自分一人じゃ何もできなくて、玲や私を頼りにするくせに、娘の味方になったことはほとんどない」 「ごめんなさい。母さんが悪かった」  目に涙を浮かべながら謝罪するが、由美は鞄を手に立ち上がると、 「もう知らない。勝手にすれば」と言い、振り返ることもせず応接室を出る。  怒りと悲しみで涙が出そうになるのを堪えながら、ヒールを履く。  玄関の戸に手を掛けたところで、人の気配に気づき振り返る。  黙礼する田村さんがいた。  由美は心遣いに感謝しつつ戸を開ける。 「最悪だ」  歩いて駅に向かう間も怒りと悲しみは収まらない。  由美は怒りだけを加熱して、目に浮かんだ涙を蒸発させようとするが、逆効果だった。由美は電柱の陰に隠れると、鞄からハンカチを探す。  こういう時に限って、なかなかハンカチが見つからない。鞄をひっくり返したくなる気持ちを抑えながら、ようやく隅にあったハンカチを取り出す。  けれども、目に当てた途端、涙は嘘のように引っ込んだ。  ハンカチをしまい、コンパクトを取り出す。鏡に映る充血した目を見ながら、どうしてうちの家族はこうも自分勝手なのかと思う。  結局、自分の事だけ――大人になってからこうなったのではなく、昔から繋がれた(かせ)を誰が引くかで揉める醜い争いを繰り返している。  この顔で仕事には行きたくなかった。けれども、やらなければならない仕事が山ほどある。連載用の原稿の準備、新刊に向けた金子との打ち合わせ。発売日が決まれば、今後取材やプロモーションも入ってくる。  過去を振り返る間も、考え事をする間も、時間は止まってくれない。しなければならないことを一つずつでも終わらせていかないと、別の何かを始める時間も機会も生まれない。  進むしかない。飛び続けるしかない。  会社に着いた由美は、すぐに金子との打ち合わせに臨む。  会議室に入ってきた金子は、席に座るや否や、「本当にこの内容でいくつもりですか?」と由美に尋ねた。  その口調には、自分のアドバイスに従わなかった由美に対する怒りが滲み出ていた。 「はい。これでいこうと思います」 「はっきり言いますけど、これは売れないと思います」 「でしょうね」 「売れなかったら、次はありません」 「だとしてもです」  由美の言葉に金子は頭を掻きながら「どうしてもこれでいくと?」と確認する。 「はい」 「どうしてそこまでこだわるんですか?」 「金子さんからいただいたアドバイスについて、自分でも考えました。でも、やっぱり納得できなくて」  金子は無言でこちらを見ている。 「自分にとって二冊目の本、しかも、書き下ろし。大事な時期であり、今後を決める勝負の一冊ということはわかってます。なので、正直に言うとワガママです。でも、自分で悩み、決めたことなので、どうしてもこの形でいきたいんです」  金子は、腕組みをしたまま、しばらく無言で考えていた。  それから、わかりやすくため息をつくと、「わかりました。じゃあ基本はこの線でいきましょう」と口を開く。 「ありがとうございます」 「気になった点を挙げていくので、修正できる所はできるだけ直してください」  由美は「はい」と返事をし、赤のボールペンを手に取る。
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