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第2部 5 呪い
新刊のタイトルは『青の女性』になった。発売日も決まり、徐々にインタビューの依頼も入ってくる。だからといって、連載や対談の仕事が休みになるわけではなく、これまで原稿に費やしていた時間をそういった仕事に割り当てるだけだ。
とりあえずは、明日刷り上がってくる見本本を、これまでの対談相手や関係者に送付するためのリストを作らないといけない。
そんなことを考えながら、朝のラッシュの過ぎた地下鉄のシートに座り、少しうつらうつらしていた由美が、目を上げる。
今週発売の『週刊新知』の中吊りが見える。同時にそこから目を離せなくなる。
“佐伯玲の死から一年……騒がしき周辺事情”
青地に白抜きで書かれた見出し。その下には、和昌と自分の写真が載っている。
一瞬で眠気が吹き飛ぶ。
直後に着いた駅で電車を降り、売店を探す。改札口手前の売店で、『週刊新知』を購入し、傍のベンチで記事を読み始める。
2013年5月1日、佐伯玲が新たな映像で人々の前に現れたのは記憶に新しい。
そして、この映像が公開されたタイミングに合わせて、彼女の生前の功績に対する再評価が進んでいる。本誌では、再び騒がしくなってきた佐伯玲の周辺事情をレポートする。
一人目のキーパーソンは、生前から佐伯玲の事務所の代表を務め、今年設立した基金の理事を務めるK氏だ。
佐伯玲より3歳年上のK氏は、かつては彼女も所属した舞踊集団で出会ってから、公私にわたり、長年彼女をサポートしてきた人物である。
これまでK氏が表舞台に出てきたことは一度もないが、佐伯玲と二人三脚で培った各国の政治家・セレブリティのコネクションの深さは、昨年のお別れの会に駆けつけた顔ぶれからもわかるとおりだ。
そんなK氏が現在考えているのが、事務所に所属するスタッフE氏の衆議院議員選挙への出馬である。
現在、25歳のE氏は、イギリスのケンブリッジ大学で社会学を専攻していた才媛だ。大学在学中から事務所のスタッフとして参加し、佐伯玲が提唱していた“U-Society”思想を学術面からサポートしてきた人物で、K氏だけでなく佐伯玲本人からの信頼も厚かった。
K氏からの再三の要請に対し、これまでE氏は固辞していた。が、後述する佐伯家の動きに対し、遂に佐伯玲の遺志を継ぐため出馬を決意したという。
一方で、佐伯玲の死から一年が経ち、佐伯家周辺もにわかに騒がしくなっている。
その中心にいるのは、父であり、かつて“政界の渡世人”として名を馳せた佐伯和昌だ。
元々、世界的なモデルであった佐伯玲が出馬したのは、父である佐伯和昌が自宅階段で転落したことが大きな理由の一つだった。その愛娘が凶刃に倒れてすぐ、佐伯和昌は政界復帰に向けたリハビリを開始。民貴党内でも、復帰に向けた調整が進んでいる。
どうやら、今回の復帰には、佐伯和昌の次女であり、佐伯玲の妹でもある女性ジャーナリスト中川佳織による後押しがあったらしく、実際にこれまでほとんど足を運んでいなかった実家に出入りする姿をキャッチしている。
やられた――そこには先日、和昌を説得するために訪れた時の姿が写っていた。
由美は一度顔を上げ、周囲を確認してから、再び記事に目を落とす。
昨年刊行した『オンナ達の末路』がベストセラーとなり、今や“女子記者”の代表的存在として活躍する中川佳織だが、そんな彼女が注目されるようになったのも、姉である佐伯玲の“U-Society”の取り組みに呼応するかのように、女性に関する企画を積極的に取り上げるようになってからだ。
元々、中川佳織は、佐伯和昌の反対を押し切って週刊誌記者になったという経緯もあり、ここ数年実家とは絶縁状態だった。そのため、佐伯玲の通夜や告別式にも顔を出していない。
だが、彼女にも佐伯家の一員として思うところがあったのだろう。父親を支える覚悟を決め、和解したようだ。
長年、佐伯玲を支え続けたK氏。
そして、佐伯和昌と中川佳織。
両者が、佐伯玲の弔い合戦を繰り広げる様相を呈した現在。もし、この光景を佐伯玲本人が見たとすれば、彼女は一体何を思うだろうか。
由美は記事の内容を必死に理解しようとしたが、一文一文が薪としてくべられ、脳細胞はのぼせていた。
由美は、財布を手に、傍にあった自動販売機に向かう。小銭はたくさんあったが、金額を調整して購入する程の余裕はなかった。
千円札でミネラルウォーターを買う。おつりを小銭入れに放り込み、ペットボトルを手に取ると、ベンチに戻り口に含む。
もう一度記事を最初から読む。
久保田の方の真偽はわからないが、少なくとも、由美と和昌の和解云々の部分は完全なデタラメだった。けれども、今回のようなロジックで書かれたら、当人達以外でこの記事の嘘を見抜くことのできる人物はいないだろう。
それくらい、読者が想像しやすい内容を織り込んだ巧妙な記事だった。
玲の遺志を継ぐという名目で、親子の断絶を乗り越えて一つになる――ありがちな美談の裏を見抜く週刊誌、というテーマと媒体の組み合わせ。
その背景には、玲の功績に対する再評価があり、そこから利を得ようとする人々の思惑が交錯する……。
電車がホームに入ってくる。この車両の全てに、そして、別の電車、別の路線に、この記事の中吊りがかかっていることを想像すると、諦めしか感じない。
電車に乗るほとんどの人間は中吊りを読まない。また、中吊りを目にした人間のほとんどは実際に記事を読むことはない。だが、中吊りで最も大事なのは、どれだけの人間が目にしたかだ。
週刊誌の中吊りに載っていた人物――人々が、記事の内容や見出しを忘れても、このイメージだけは最後まで消えない。
由美は、新刊の出るタイミングでこの記事が出たことを呪う。しかも、ここまではっきりとネガティブな形になると、影響は必至だった。
由美は鞄から伊達眼鏡を取り出す。
かといって、このまま会社を休むわけにはいかない。こんな状況だからこそ、目の前の仕事にしっかりと取り組まなければ。
由美は週刊誌を鞄にしまうと、電車に駆け乗る。
中吊りが目に入らない位置で本を開くが、神保町駅に着くまでの間、一文も読むことはできなかった。
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