第2部 5 呪い

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 できるだけ平静を装い、由美は週刊プレス編集部に入る。  ドアを開けた途端、出社していた人間が一斉にこちらを見るのを感じた。それでも、普段と変わらぬ様子で「おはようございます」と挨拶しながら、自席に向かう。  鞄からパソコンを取り出し、メールをチェックする。  早速、再来月のシンポジウムへの出席依頼を取り下げたいというメールが届いていた。  由美は、取って付けたような理由の書かれたお詫びを読み終えると、“また機会があったらよろしくお願いします”と書いて返信する。  それ以外のメールにも目を通していたところで、富沢に肩を叩かれる。富沢は何も言わずに指差しで、外に出るよう指示する。  富沢の後について、別のフロアの会議室に入る。  会議室では平井が待っていた。  席に着くや否や「まあ何の話かわかるよな」と富沢が口を開く。  由美は頷く。 「ショックかもしれんが、そんな暗い顔するな」 「はい」 「実家に帰るなんて普通のことだ。ああいう書き方だから、佐伯玲への関心が高まっている時期だから、当然ネガティブな反応が起きるだろうが、だからといって、今の中川の生活や活動を変える必要はないというのが、編集部として、会社としての見解だ」  由美は顔を上げる。 「もちろん、そう頻繁にある事じゃないが。まあ運が悪かった程度に考えておけばいい」 「大丈夫でしょうか?」 「おい、たまには俺に編集長としての仕事をさせろ。なあ?」  そう言って富沢は、隣に座る平井に笑いかける。 「そうですね」と平井は答えたが、険しい表情のままだ。  二人より先に編集部に戻った由美が姿を見せた途端、部内の空気が変わるのを感じる。  由美が佐伯和昌の娘であることは、『オンナ達の末路』のタイミングで記事になる前から、『週刊プレス』編集部内はもちろんのこと、交流のある他媒体の記者にも広く知られていた。  けれども、これまでと今回では少々事情が異なる。  一つは、『オンナ達の末路』がベストセラーになり、“女子記者”として知名度が上がっていたこと。  もう一つは、以前の記事は、あくまで“中川佳織”が中心であったが、今回は明確に“佐伯由美”として取り上げられたこと。  由美が危惧していたのは、今後、玲や和昌に関連した記事が続くのでは、ということだ。  胸の内に、佐伯家への怒りが湧いてくる。  これまで、由美は佐伯家に関する取材は一切断ってきた。仕事においても、一度たりとも、佐伯家を餌にしたことはない。いつも騒ぐのは周囲だ。  それなのに、苦労して作り上げてきた環境も、佐伯家のせいで奪われそうになっている。 「どうしてこうなるのか!」と、由美は心の中で振り上げた拳を振り下ろす。  シャボン玉のような憤りが由美の中を飛び回る。  不可思議な模様を浮かべながら、手を伸ばしても届かないくらい高く舞い上がるシャボン玉――自分は見上げることしかできないのか。いや、まだできることはある。  携帯電話を片手に席を立った由美は、資料室に向かう。  資料室の明かりを点け、『週刊新知』に所属する同い年の記者に電話をかける。  一度目のコール音が鳴り止む前に電話に出る。 ――田渕です。 ――『週刊プレス』の中川です ――おー、久しぶりじゃん。元気? ――今朝のあなたのところの記事を見るまでは  田渕は笑う。 ――思ったより落ち込んでない。さすが中川 ――一度世に出たものは、簡単に消せないのがこの世界だから ――だな。で、思い出したように掛けてきたのはその件か? ――そう。今周りに誰かいる? ――いや、大丈夫だよ。俺は今日地方だから ――先週判明した四十の女が家出娘囲って売春させてた事件? ――さすが勘が鋭い ――状況はどう? ――ぼちぼちかな ――じゃあ来週号楽しみにしてるから ――はいよ。で、誰が書いたかってことか? ――そう ――俺じゃないよ ――それは知ってる ――でも、残念ながら俺も知らない ――もし知ってても、そう言うでしょうね ――知ってるのは、締め切り直前に差し替わった原稿らしいということかな ――そうなの? ――で、どんな特ダネかと思えば、別に極秘な内容でもないじゃん? ――そうよね ――それとも、他に何かあったりする?  田渕が冗談ぽく訊ねる。 ――何もないどころか、抗議したいくらいよ ――それはご勘弁を  飄々としてる。これくらいの図太さがないと、週刊誌記者は務まらない。 ――まあ、色々な人と対談するのもいいけどさ。たまには現場に顔を出しな ――そうね、会いに行ってあげる  由美はおどけた口調で答える。 ――またな ――電話取ってくれてありがとう。じゃあまた  電話を切り、携帯電話の画面を見つめる。  他か……真っ先に思い浮かぶのは、玲の精神疾患についてだ。  書かれる可能性は十分にあった。  モデルとして世界的な成功を収めた後の休養。その後の政界進出。  そして、高木瑠香に刺された際の彼女の行動。  あの映像を見た誰もが感じる違和感――なぜ彼女は高木瑠香に近づき、抱擁し、口づけを交わしたのか――その説明として十分に機能する。 “心身の不調” “心療内科への通院”  著名人であれば尚更、誰もがその事実を隠そうとする。  現代の呪い――それが精神疾患であり、その言葉は、人々が理解できない全てを説明してくれる魔法の言葉でもある。  他の事を考えたことで、少し心の余裕ができる。  世に出たものは仕方ない。また、反撃もできないなら、これ以上傷を深くしないよう対処するしかない。  そのためには、今の自分にできること、目の前の仕事をきちんとこなしていくことだ。  編集部に戻った由美は、昨日のうちに構成までまとめていた連載原稿を書き進めていく。  想念が無意識に動く指先によって文章となり現れる瞬間――そこで初めて自分の思いをはっきりと認識したり、予想外の考えに驚かされたりする。  こういった瞬間があるから、この仕事は止められない。だからこそ、失いたくない。
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