第2部 5 呪い

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 二日後、由美は以前対談した社会学者の新刊発売記念イベントでインタビュアーを務めるため、新宿にあるホールの舞台袖にいた。  金子との食事後、由美は社会学者の担当編集に連絡を入れ、登壇について相談した。担当編集は、既に記事のことは知っていて、社会学者とも対応を話し合っていたが、今回はそのままお願いするということで、今日の仕事となった。  スタッフに促され、壇上に進む。客席はほぼ満席。大学生と思われる若い世代の姿が目立つが、中高年の男女も一定数参加していた。 「本日は江藤恵一氏の新刊『若年漂流』刊行記念トークショーにお越しいただきありがとうございます。私、本日のインタビュアーをさせていただきます、『週刊プレス』の中川佳織です。どうぞよろしくお願いします」  由美が一礼する。客席から拍手が起き、ホッとして顔を上げる。 「おいお前!」  男性の怒号と共に拍手がピタリと止む。 「トークショーの前に説明すべき事があるだろう」  客席中段で、中年男性が記事の掲載された『週刊新知』を掲げている。 「権力を監視するはずの記者が、佐伯和昌の娘。しかも、筆名を使い身分を偽装してだ」  スタッフが駆け寄る間も、男性は言葉を続ける。 「良いご身分だな。コネ入社で高給取りの出版社に入社、女子記者としてチヤホヤされながら女尊男卑の思想をばらまく!」 「キサマの本は、姉である佐伯玲の受け売り本!」 「大物政治家の娘では経験したこともない苦しい生活の人々を、報道の名の下に面白おかしく書きやがって!」  スタッフに両脇を抱えられ、男性は退場していく。特に抵抗する様子もなく、それどころか、勝ち誇ったような薄ら笑いを浮かべている。  改めて由美は客席に目を向ける。 “佐伯和昌の娘”“筆名”“偽装”“コネ入社”“高給取り”“女子記者”“女尊男卑”“苦しい生活の人々”“面白おかしく”  男の口にした言葉と、壇上の女性とを結びつけようとする視線。  戸惑いが疑惑に変わり、会場中に拡がっていく。それは信用ならないという含みをもった眼差しとなり、拒絶の殻に覆われた聴衆が眼前に現れる。  由美は足が震えそうになるのを堪えながら、「お騒がせして申し訳ございません」と頭を下げる。それから「では改めて、江藤恵一氏を壇上にお呼びしたいと思います。皆様、拍手でお迎えください」と呼び込んだ。  以降、トークショーが終わり、控え室の椅子に腰掛けるまでの出来事を由美はあまり覚えていない。ステージの椅子に座り、刊行された新刊についてインタビューした。だが、こちらの質問に江藤氏がどのように答えたか、回答に対しどこまで適切な受け答えができたかまではわからなかった。  インタビュー中は、客席の様子を窺う余裕もなく、向かいに座る江藤氏の方ばかり見て話し、最後は、後に行われるサイン会の案内をして、逃げるように控え室まで帰ってきた。  由美はテーブルに置かれたミネラルウォーターを口に含む。常温の水が身体に沁みる。  全身に感じる疲労から、しばらく下を向いたままでいた。  浅はかな判断でイベントをぶちこわしにしてしまったことを悔い、あの程度のことで激しく動揺してしまう自らの弱さを呪う。  こういう場に出る以上、こういった事態が起こる可能性がある――そのことについては、事前に考えていたし、その場合も、冷静に対応して自らの役割を全うしなければならないと、肝に銘じていたはずだった。  だが、由美の覚悟は無惨にも砕け散った。  男性の発言により、自分がそういった人間であることを周知された。その結果の拒絶に対し、為す術がなかった。  由美はゆっくりと頭を上げる。とりあえず仕事は終わった。あとは、江藤氏に挨拶して帰るだけだ。  荷物をまとめた由美は、間に空室を一つ挟んだ先にある江藤氏の控え室に向かう。  ドアの前で深呼吸した所で、「なんであいつだったんだ!」という、江藤氏の怒声が聞こえ、由美は身を固くする。 「誰か代わりを探せと言っただろう」 「あと二日のタイミングで代わりを探すなんて無理ですよ」 「あの程度の対応しかできないなら、もっとマシな人間、いくらでもいる」 「ですが、事前に店内のポスターやホームページで告知もしてましたし、そう簡単には……」  声のトーンが下がり、その先は聞こえなくなる。  由美は少しだけ時間を置いてから、ドアをノックする。 「はい」という江藤氏の声は、壇上と変わらない。 「失礼します」  由美はドアを開けると、「今日はご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」と頭を下げる。 「中川さんのせいではないですよ」  そう江藤氏は口にするが、由美は顔を上げることができなかった。 「お先に失礼します。今後ともよろしくお願いします」と伝え、その場を辞する。その後、書店スタッフにも挨拶をして、ホールを後にする。  今日は直帰の予定だった。  由美は地下道に降り、地下鉄の駅に向かうが、途端に膝の力が抜け、倒れそうになる。  由美は周囲を見まわす。誰かに見られている気がした。  鞄の中を探すふりをしてから、近くのデパートに入る。フロアを進み、化粧室に向かうと、空いていた一番奥の個室に入り、便座に腰掛ける。  動悸がして息がうまくできない。浅い呼吸が体内で響き、視界がぐるぐるする。  化粧室は人の出入りが激しい。  下を向いている間も、隣の個室では何人も出たり入ったりを繰り返している。  何人目だっただろうか。隣の個室のドアが閉まる。  由美は耳を澄ます。衣擦れの音がしない。  杞憂かもしれなかった。  それでも、静かに立ち上がると、走って化粧室を出る。  デパート正面の大通りで、流しのタクシーを拾う。  乗り込んだ由美は「阿佐ヶ谷方面」と告げ、すぐに車を出すよう運転手に指示する。  由美の様子を案じた運転手が「お客さん大丈夫ですか?」と声を掛ける。 「大丈夫です」と由美は答えるが、バックミラーに映った自分の顔は茹ですぎたもやしのように白かった。  数日後、『若年漂流』の特設ページにトークショーの様子を伝える記事が掲載された。当然ながら、最初のトラブルはなかったことにされていた。ただし、当初このサイトに載るはずだった由美の書評は掲載を見送られた。
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