第2部 6 おしまい

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 そんな最悪なタイミングで『青の女性』は発売となった。  事前に見本本を送付していた識者からの推薦コメントもなく、自社雑誌を中心に受けていた取材も、ほぼ全てが掲載を見送られた。  Amazonの商品ページでも、本の内容とまるで関係ない人格攻撃に近いカスタマーレビューが並び、低評価の星がつく。  加えて、発売日の夜に動画投稿サイトにアップされた一本の動画が話題になっていた。  その動画は、マスク姿の女性が『青の女性』を一ページずつ毟って鼻をかみ続けるという内容だった。  由美も動画を見た。  ブルーのネイルの入った指先で女性がページを破る。  動画では今破られたページが何ページなのかはわからないようにされていたが、由美には、わずかに映る文字の並びから、書かれている内容がわかる。  美容整形外科医を刺殺しようとした犯人の父親が悔悟の涙を流しながら語るページが「季節外れの花粉症で」と話す女性によって鼻をかまれ、ゴミ箱に捨てられる。  自らが決して傷つくことのない安全地帯からのパフォーマンスが、由美の無力感を際立たせる。  苦労して書き上げたものが、嘲弄(ちょうろう)しか引き起こさない虚しさ。  トレンドという濁流が、必死に積み上げてきたものを根こそぎ押し流していく。暗闇に向かい叫んだところで、轟音にかき消され、誰の耳にも届かない。  自らを取り巻く環境が、どうにもならない状況に陥りつつあることが由美にはわかった。けれども、現状を覆す手立ては見当たらない。  どうしてこうなったのか。これから自分はどうなるのか。  取り急ぎ、平井から今週いっぱいの外出禁止令を出された由美は、編集部内で他の記者のアシスタントや資料集めの日々を過ごした。  一般的に定時と言われる時間に毎日会社を出るなんて、週刊プレス配属後初めてと言ってよかった。とはいえ、今の状況から、むやみに外を出歩くこともできず、まっすぐマンションに帰るしかない。  たまには料理でも、と思っても、結局、コンビニで買った弁当をつまみながら、連載再開に備えた下調べをしたり、買ったままになっていた本を読んで時間を過ごす。  仕事を取り上げられると、自分には何もないことが顕わになる。もしかしたら、これが普通の会社員の暮らしなのかもしれないが、望んでこの状況になったわけではない。  睡眠改善薬を飲み、早々にベッドに入っても眠れず、目を瞑るだけの状態が続き、時間を無駄にしてる気がする。そう考え始めたら最後、眠気ははるか彼方に消え去り、明け方になってようやく浅い眠りを迎える日々。  そんな一週間を過ごした校了日の翌日、由美は朝から自宅マンションで洗濯をしていた。  元々は『青の女性』の取材が入る予定だったが、すべてなくなった。  絶好の洗濯日和だった。物干し竿にかかったバスタオルが風にはためき、タオルにハンカチ、下着のかかったパラソルハンガーがまわる。  干し終わった洗濯物と青空を眺めていると、リビングのテーブルに置かれた携帯電話が鳴る。 “編集長 富沢”という表示。  かすかに切れ間が見えた由美の心に、再度暗雲が立ちこめる。 ――中川です ――今どこにいる? ――家です ――今日売りの『週刊BAN』にまた記事が出てる、と言った富沢は、 ――今回の記事は、佐伯和昌や佐伯玲とは関係ない中川とお前の彼氏の記事で……  と続けるが、その声は徐々に遠くなる。 心の中で何もかかっていないパラソルハンガーがキーキーと音を立ててまわる。 ――中川?  富沢の呼びかけに、――はい? と由美は素っ頓狂な声をあげる。 ――大丈夫か? ――大丈夫です  今度はしっかり答えたつもりだったが、富沢はしばらく黙った後、 ――さっきまで何してた? と話題を変える。 ――ちょうど洗濯物を干した所です ――今日は良い天気だからな、と答えた富沢は、 ――休日に電話して悪かった、と言って電話を切る。  由美は携帯電話をテーブルに置いて立ちつくす。  自分がもう一度記事になるとは想像してなかった。しかも、佐伯家とは関係ない内容で、掲載誌も異なるとは。  由美はこの動きのマズさを感じる。  自分は業界の(うみ)として認識されたのかもしれない。メディアの自浄作用をアピールするための標的に選ばれたのではないか。  世間では、中川佳織=佐伯和昌の娘という関係が定着し、それにまつわる悪評が一人歩きを始めている。  Twitterを通じて拡散したデマの一件については、収束に向かい始めたものの、インターネットの検索欄で“中川佳織”“佐伯由美”のどちらを入力しても、サジェスト機能で表示されるのは、“父親”“姉”“佐伯和昌”“佐伯玲”“捏造”“女子記者”というワードだ。  これが世間から見た私の評価であり価値だ。  過去は衆目に晒され、勝手に品評される。誰かからは「(ろく)な人生じゃないな」と軽蔑され、別の誰かからは「まともな努力もせず恵まれた勝ち組」と嫉妬される。  罵倒することで溜飲を下げ、自己肯定する。  クリック一つで呼び出され、クリック一つで目の前から消える――憂さ晴らしのデリヘル嬢にでもなった気分だ。  暗澹たる気持ちでマンションを出て、近所のコンビニに向かう。  買い物かごに、ヨーグルトとカットフルーツを入れ、雑誌コーナーへ。別の週刊誌を立ち読みする男性の横から手を伸ばし、『週刊BAN』をかごに入れる。一瞬、男性がこちらを見たが、気にせずレジに向かう。  コンビニを出た由美は、すぐにマンションに戻り、エントランスで郵便受けを開ける。  不動産情報、宅配寿司のチラシの下に、差出人も消印もない白封筒がある。  手に取って透かしてみる。手紙のようだ。  (いぶか)しみながらも、部屋に持ち帰る。コンビニの袋をテーブルに置き、封筒を見つめる。  嫌な予感しかなかった。  もし、このまま読まずに捨てたとしても、誰にも文句は言われないだろう。  それでも、由美はレターカットで端を切り、折りたたまれた紙を開く。左上に大きく書かれた“女性の敵へ”という言葉にも驚きはない。  女性の敵へ  これは警告だ。  私はお前の居場所を知っている。  これ以上女性の価値を貶める記事を書いた時には、容赦なく天誅を下す。  こんな手紙を書いて、住居を特定し郵便受けに入れる。  恐らく、この手紙を書いた人物は、私に恐怖を与えたいのだろう。  これまでもこういった手紙は何通も受け取ってきた。だが、一度も被害を受けたことはない。実行に移す覚悟もないのに、返事がない=自分の正しさが証明された、と思い込んで満足する。実際は、相手にされていないだけなのに。  そう考えると、一連の事件を起こした女性達がどれだけの覚悟を持って事件を起こしたかがわかる。  決して擁護するつもりはないが、自分が絶対に傷つかない位置から、他人を貶め支配しようとする人間よりも、まだ彼女達の方に好感を覚えるのは、今の自分の立場のためだろうか。  由美は手紙をシュレッダーに差し込み、妄言を細切れにする。  椅子に座り、コンビニの袋から、ヨーグルトとカットフルーツを取り出すと、週刊誌のページをめくりながら食べ始める。  由美に関する記事は、“あやし~い人達”というワイド記事の一本で、“女子記者 中川佳織、野心のくすぶり”という見出しがつけられていた。  4月16日に神宮球場で行われた、ヤクルト対広島のナイター戦の三塁側内野自由席に恋人と並んで野球観戦する中川佳織の姿があった。  隣に座る男性は、“the Yellow Clowns”というバンドでギターを担当するTomoだ。といっても、本誌の読者で、このバンド名を聞いたことがある人物はよほどの音楽通だろう。  それもそのはず、このTomoをリーダーとするバンド“the Yellow Clowns”は、イギリスのインディーズレーベルから二枚のアルバムをリリースしているものの、日本でのリリースはない。  二人は大学時代からの知り合いだが、このTomoと中川佳織の関係性を紐解くと色々と興味深い事実が見えてくる。  神戸にある中華食材を扱う商社の創業者一族の次男であるTomoが、大学在学中に組んでいた“緊急煽動装置”というバンドは、アメリカのインディーズレーベルからアルバムをリリースした後、ボーカルの自殺により解散している。  その後、新宿のバーでアルバイトをしながら結成した“the Yellow Clowns”がアルバムを発売しているレコード会社は、かつて中川佳織の姉、佐伯玲がモデル時代にプロモーションビデオに出演して話題となったレーベル創業者の息子が代表を勤めている。  昨年10月、Tomoは、長年続けてきたバーテンダーの仕事を辞めている。周囲には「音楽に集中するため」と話していたが、ちょうどその時期は、中川佳織の『オンナ達の末路』がベストセラーとなった時期だ。  その後、バンドは今年一月に二枚目のアルバムをリリースしているが、レコーディング中の昨年10月に結成時からのメンバーだったドラムが脱退している。脱退の理由について、バンドは「音楽性の違い」と説明しているが、関係者によると、Tomoからのクビ宣告だったようだ。  そこまでするバンドの実力が一体どの程度なのかというと、先月行われたライブイベントでは、ほとんどの聴衆が耳を塞いで席を立つ、聴くに堪えないものだったらしい。  由美は記事から顔を上げる。  ゴシップ特有の書き方だった。一つ一つを意味ありげに書きながらも、肝心なところはぼかし、あとは読者に想像させる。  読者が想像するのは、恐らく次のようなことだ。 「金持ちの道楽としてのバンド活動」 「大した実力も無いのに、恋人の姉のコネを使って海外でCDデビュー」 「性格的にも難ありで、結成時のメンバーを一方的にクビにする」  そして、「中川佳織はそんなダメ男に貢ぐバカ女」  その結果、由美の炎上を知る読者は、今回の騒動で、勝ち組同士と思われる二人の生活が破壊されることを「ざまあみろ」と思う。  人々がそうであってほしいと思う物語が、真実として広まっていく。  一方で、実情は、柏木の音楽活動に由美が関与したことはないし、生活を支援したこともない。  柏木がバーテンダーの仕事を辞めたのは、記事の通り「音楽に集中する」ためだ。実際、“the Yellow Clowns”としての仕事に加え、個人での活動も増えていた。 “the Yellow Clowns”は、特にアジア圏での人気が高く、アルバムからの楽曲が、欧米のアウトドアブランドが中国国内で展開するキャンペーンのイメージ楽曲に起用されたこともあるし、日本の自動車メーカーがタイ国内で放送するCM楽曲も書き下ろしている。  来月から始まるヨーロッパツアーでは、各国の音楽フェスへの出演が発表され、最終のパリ公演では現地オーケストラとの共演も予定されている。  個人としても柏木は、昨年末に“OMOCHA-No-Uta”というタイトルで、アメリカのインディーズレーベルからアルバムを発表している。  この作品は、“the Yellow Clowns”の世界観とは打って変わって、様々なアコースティック楽器の演奏によって録音されたインストゥルメンタルアルバムで、おもちゃ箱をひっくり返したような1分~2分程度の短い楽曲が28曲収録されていた。  こういった情報は、バンドのホームページに全て掲載されている。けれども、読者の中でそこまで興味を持つ人間など皆無だろう。  それから、由美は柏木のことを考える。恐らく誰かから連絡がいっているに違いない。 「柏木はこの記事を読んでどう思うだろう?」  いつも飄々とした様子の柏木でも、ここまで嘲りの対象とされれば、怒りの一つでも覚えるのではないか。  由美は携帯電話に伸ばしかけた手を止める。 「連絡したところで、何を伝えればいいのか?」  謝罪か弁解か。何に対して?  どうして私がそんなことをしなければならないのか。  柏木ならきっとわかってくれるはず。  そう結論づけ、由美は記事の後半を読み進めていく。
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