第2部 6 おしまい

4/4
前へ
/95ページ
次へ
 由美は昼過ぎに編集部に出社した。  平井はいなかったが、富沢は出社しているようだった。  由美はそのまま自席でメールをチェックする。  休日の静かな編集部で、由美は高木瑠香の取材メモを見ながら、今度面会に行く際の質問項目を考えた後、インターネットで高木瑠香の生家周辺の地図を眺める。  富沢が編集部に戻ってくる。  その表情は険しく、椅子に座ると上を向いて、すぐに大きなため息をつく。  由美の出社に気づいた富沢が、席を立ち近づいてくる。 「なんだ、出てきたのか。夕方、にわか雨が降るみたいだが、洗濯物は取り込んできたか?」  いつもの軽口だ。 「そうなんですか?」  由美は調子を合わせる。 「でも、ちょうどよかった。ちょっと話があるから、先に3階のC会議室に行っておいてくれるか」 「わかりました」  ノートを手に編集部を出た由美は、廊下を進み、階段を降りる。 「とんだ貧乏くじだよ」  階段を降りた所で聞こえた、聞き覚えのある声に、足を止める。  金子の声だ。 「こっちの指示は聞かないし、ちょっと褒めると、暴走してこっちが求めない形で書いてくる」  その声は、角の右側の喫煙所から聞こえる。 「災難だよ、本当に。評価にも響くし、担当している他の人に知られてみろ。『自分と仕事したい』なんて言ってくれる人も逃げていく」  相手の声は聞こえない。ということは、電話だろう。 「次、ないよ。それにしても、売れないバンドマンと付き合ってるなんて困るよな。それじゃあ、そこいらのミーハー女と変わらない、スイーツが書いた本になっちゃうんだから」 「女子記者とはいえ、まずは知性があるっていうイメージが大事な訳じゃん。こういう記事が出たら、どうなるかってことがわからないんじゃ困るよ」  金子の一言一言が、奮い立たせた由美の心の(ひだ)を逆撫でしていく。 「イヤだよ。やりたくないよ、もう。今回のことで、どれだけ頭下げたか。色々動いて、プランも立ててさ。それが、あの騒動で全部パー。取り上げてくれる予定だった関係者、盛り上げてくれる予定だった書店の人に、頭下げまくってさ。本当、今後自分が担当する別の本にも影響しそうだよ」 「それはわかんないけど、記者は難しいだろうね。まあ、実家は金持ちだろうし、いざとなったら結婚すればいいんじゃない。女は良いよな、男と違ってそういう幸せもあるからさ」 「おう。じゃあね。めげずに頑張るよ」  通話が終わる様子だったので、由美は階段を降り、踊り場に隠れる。  喫煙所の扉が開き、金子が足早に廊下を進んでいくのを確認してから、ゆっくりと階段を上がった所で、階段を降りてきた富沢と鉢合わせする。 「おう、どうした?」  富沢が驚いた様子で訊ねる。 「ぼーっとしてたら下の階まで行っちゃいました」  言った後で、下手な嘘だと思った。  案の定、富沢は「そうか」と怪訝そうな表情を浮かべる。  会議室に入り、富沢が照明のスイッチを押す。  役員会議室の巨大な長方形のテーブルで、向かい合わせに座る。 「記事は読んだか?」 「はい」 「まあうちも似たような記事を書いてるから、他社(よそ)のことはとやかく言えないが、災難だったな」 「うちだったらもう少しちゃんと取材してますよ」 「そうか」 「そうです」  由美は机の下で両の拳を握る 「まあ、くだらないことを書いて、溜飲を下げたいだけの記事だ」  先程の金子の言葉を思い出しながら、これまで柏木との関係を一度たりとも恥ずかしいと思ったことがないのに、体面を気にしてしまう自分に嫌気がする。 「で、今日の話だが、中川のやっていた連載とインタビューはどちらも終了となる」  覚悟はしていたが、今朝決めた腹は既にボロボロだ。 「俺も編集長として、残念に思ってる。特に『性の黄昏』は、うちの読者層にも合ってたし、漫画も面白くて評判だったからな」 「ありがとうございます」 「インタビューと連載の二本進行は大変だったと思うが、本当によくやってくれた。これからはまた現場でバリバリやってくれ」 「はい」 「もちろん不安も不満もあるだろうが、会社としての決定事項だ。理解してくれ。少しの間、辛い時期が続くかもしれんが、ほとぼりが冷めて世間が忘れるのに必要な時間は、そう長くないだろう」  富沢は言うが、由美はもう以前のようにその言葉をそのまま信じることができなかった。 「それから、まだこれは部内でも一部を除いて未発表だが、結果として前任者になる中川には誤解のないよう先に言っておく。来月から新しいインタビューコーナーが始まるが、円谷穂純(つぶらやほずみ)は知っているな? 彼女がインタビュアーを務めることになる」  由美は自分の目が大きく見開くのを感じた。円谷穂純は今年の芥川賞を19歳で受賞した、今世間で最も注目を集める女性作家だったからだ。  彼女の父である円谷修(おさむ)はアバンギャルド演劇で名を馳せた昭和を代表する劇作家だ。主宰する劇団は積極的に海外公演を行い、高い評価を得ていたが、家計は火の車だった。それでも、自宅を抵当に入れながら追究した独創的な世界観は、後の映画界、演劇界に多大なる影響を与えた。  円谷修が45歳の時に当時20歳の女優との間に生まれた一人娘が、円谷穂純だ。父となった円谷修だったが、翌年には全身に転移した癌が発覚し、47歳の若さで夭逝(ようせい)した。  円谷穂純は、受賞作となる作品を書き上げるまで、小説など書いたことはなかったそうだが、高校三年の冬に、受験勉強の気晴らしに一週間で書いた初めての小説を潮談館の文学賞に応募し、受賞。掲載された作品で、翌年の芥川賞を受賞した。  受賞会見で初めて公の場に姿を見せた彼女は、チェック柄のショートパンツに黒色のタイツを穿き、足元はショートブーツという今時の女子大生の格好だった。  会見中も、快活な笑みを絶やさず、コロコロと変わる豊かな表情は、人々の想像する作家像とは真逆で、そのギャップも世間からは好意的に捉えられた。  何より作品の評価が極めて高かった。  選考委員を務めた女性作家は、選考会後の会見で、 「ひらがな、カタカナ、漢字、外国語、それぞれが持つ字面を、私の想像を超えたレベルで多面的に捉え紡いだ文体で、決して明るいとは言えない物語をポップアートのように描き出すことに成功している」と絶賛した。  作品は、様々な男性を周到に潜ませた媚態(びたい)で誘惑し続ける女性が主人公の話で、男性達を悪魔的に弄びながら転落し続けていく(さま)を描いていた。  若さと整った容姿、稀有な才能、そして、生い立ち――人々が好むドラマが揃っていた。  その結果、受賞作『黒いバター』は100万部を超えるベストセラーとなり、円谷穂純も、ファッション誌の専属モデルとして誌面を飾り、FMラジオのレギュラーパーソナリティを務めるといった、従来の作家観を覆す活動を行っている。  由美も作品を読んでいた。  文章としての性質は異なるものの、比較することがおこがましいほどに、こんな才能は自分にはないという絶対的な差を感じた。必死になって磨いてきた文章も、絶対的な才能の前には紙くずを積み上げてきたに過ぎない。  そして、彼女が作中で書いた“女性の生はイチジクのようだ”という一節は、由美が取材を通して感じてきた女性の人生に対する思いを見事に切り取っていた。  どれだけ華やかに活動しようとも、円谷穂純は“女子作家”と呼ばれることはないだろう。それは、作家という職業への敬意がそう呼ばせないだけでなく、誰からも認められる実力がそこにあるからだ。  ただ、由美が目を見開いたのは、自分の後釜に今最も旬な作家を準備した富沢の手腕と、タイミングの良さに対してであった。 「話は以上だ。また企画を出して書けば良い。まだチャンスはある」  富沢の慰めも、もはや由美には届かなかった。  おしまい。それは敗北でも挫折でもなく、次がないということ。  別の打ち合わせがあるという富沢が先に会議室を出る。  扉を閉めた時の「バタン」という音は、しばらく間、耳の奥から消えなかった。
/95ページ

最初のコメントを投稿しよう!

31人が本棚に入れています
本棚に追加