第2部 7 残酷な幸福

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 翌朝、熱はだいぶ下がっていた。一方で、予定周期を10日以上過ぎているにも関わらず、生理がきていないことに気づいた。  珍しくはない。これまでも、仕事が忙しい時に、遅れたことが何度もあった。今回も、一連の騒動によるストレスが原因だと思うが、念のため検査する。  洗面台の棚から、妊娠検査薬を取る。以前使った際の残り一本を取り出し、空箱をゴミ箱に捨てると、トイレに向かう。  便座に座り、検査薬に尿をかけ、キャップをする。  水平にして待つ。 「避妊してたから大丈夫」と言い聞かせるが、判定欄には、くっきりと縦線が浮かび上がる。 “陽性=妊娠”  由美は頭の中が真っ白になる。  何度確認しても、赤紫の線は消えない。  由美はゆっくりと立ち上がって、下着を穿く。  記者として様々な性を見てきた。  売る性。買う性。見る性。見せる性。見られる性。ゲームの性。  由美にとってのセックスは、大切な人とのコミュニケーションの一つだった。もちろん、それが生殖のためであることを忘れていたわけではない。  妊娠とは、由美の卵子に柏木の精子が入り込んでできた受精卵が、子宮内壁に着床したということ。言葉にするとそれだけだ。  ただ、人生が変わる。特に女性にとっては。 「なぜ今なのか」と思いながら、トイレを出た由美は、平井に午前中通院の連絡を入れてから、近所の産婦人科を調べ、外出の準備をする。  自宅から歩いて病院まで向かうまでの間、自分に初めて生理が来た時のことを思い出す。  由美の初潮は中学一年の秋で、周りと比べても遅い方だった。  目覚めた時の違和感。おしりが濡れていた。起き上がり布団をめくる。シーツに点々とできた赤い染み。  生理については、保健体育の授業で聞いていたので、これが初潮であることはすぐにわかった。  とはいえ、見聞と体験にはかなりの隔たりがある。  自分の股から痛みと共に出血したという衝撃が消えることはない。  すぐに田村さんに相談した。  部屋に入った田村さんは、てきぱきとシミのついたシーツを畳むと、由美にパジャマと下着を脱ぐように指示して、ナプキンを渡す。  受け取った紙ナプキンは、見た目以上に重く感じられた。 「由美様、これは女性にとって当たり前のことです」  田村さんの声はやさしかった。  あの日からこれまで、ほぼ毎月繰り返してきた生理。  生理の始まる少し前から、疲れやすくなり、些細なことでイライラするようになる。月経が始まると、下腹部がずんと重くなり、量が多い時はどろりとした経血が下腹部を伝う。  当たり前になったが、慣れることはない。  肉体から溢れる性のマグマ。  それが一時的であれ停止するということ。  ある意味、始まりかもしれない。  始まりは変化を意味し、変化には適応せねばならない。 「うまくできるだろうか」  不安を抱きながら、由美はクリニックの扉をくぐる。
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