第2部 7 残酷な幸福

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 作業部屋は、柏木のマンションから徒歩5分の場所にあるアパートの2階だった。  ドアホンを鳴らす。すぐに鍵が開けられ、柏木が顔を出す。  無精髭を生やし、寝不足で充血した眼はぎらついている。  柏木は無言で由美を見つめた後、ドアを大きく開け、室内に招き入れる。  作業部屋はユニットバスの1Kで、キッチンに置かれた半開きのゴミ箱の蓋からはスナック菓子の袋がはみ出ている。  キッチンを抜け、部屋に入る。  正面のデスクには、ノートPCにキーボードが置かれている。右側の壁際には、数本のエレキギターとベースがスタンドに立てかけられ、反対側の壁には仮眠用のパイプベッド、そして、部屋の中央は足の踏み場がないほどにエフェクターが並べられ、ケーブルで繋がれている。  くたびれたTシャツにハーフパンツの格好をした柏木がデスク近くのチェアに座ると、由美にベッドの端に座るよう促す。 「何か飲む?」  柏木の問いに、由美は首を横に振る。 「で、大事な話って?」  間髪入れずに訊ねる。 「最近忙しいの?」 「そう。だから本題を早く」  由美の知る柏木にはない、(とげ)のある言い方だった。なので、由美もストレートに伝えることにした。 「妊娠した」 「そう」  つれない反応。 「医師の診察は受けたの?」 「5週目だって」 「ふーん」  柏木は左手で頭を掻く。醒めた声だった。 「で、由美はどうしたい?」 「そんなのまだわからない。第一、私一人で決められる話じゃないでしょ?」  由美の言葉に、「なるほどね」と柏木は答えたが、その口調は風船ガムが弾けたように軽い。 「そのためには、お互いの人生観を話さないと」と言って、柏木が切り出す。 「最初に言わなくちゃいけないのは、自分に結婚願望はない、ってこと。もちろん、子どもも要らないと思ってる。理由は、自分が生業(なりわい)にしてる音楽が、所詮、芸事でしかないと思ってるから」  柏木は由美の目を見据えたまま続ける。 「芸事がどういうことかっていうと、将来の見通しも立たないもので、それを今の状況に当てはめると、子どもができたから売れる作品を書かないと、なんて思ってもできないし、やる気もない」  由美は黙って続きを待つ。 「それはたぶん、自分はいつ死んでもいいっていう、死ぬ自由だけは常に持っていたいってことで、自分が生きていくのに必要なこと以外、何も持ちたくないってことでもある」  柏木はそう言うと、「こんな不健全な人間だって思わなかった?」と口元を緩める。 「今までこんな話してこなかったけど、自分はずっと昔から『人は死ぬために生きている』って考えてきた。『死』っていう、いつ爆発するかわからない時限爆弾を背負いながら、今自分がしたいことをすればいいと思っているし、そうしてきた。そして、この生き方をこれからも変えたくない、っていうのが自分の考えなんだけど。由美はどうしたい?」  柏木の眼は強い意思で輝いていた。  玲の眼差しと同じだ。生命力に満ちた眼差しは、そうでない人間には、自分の人生が質されているように感じさせる。  由美は、できるだけ下を向かないようにしながら、ここに来るまでの間に考えていたことを伝える。  柏木は熱心に耳を傾けていたが、由美が話し終えた後の第一声は「なるほどね」という先程と同じ言葉だった。 「由美の考えはわかるよ。けどさ、男からすると、女性のその『誰かのお嫁さんになって子どもを産むことが幸せ』って、すごく窮屈な考えだよね。別に結婚しなくても、子どもを産まなくても、幸せになれるとは考えられないの?」 「卑怯よ。その言い方」  由美が口を挟む。 「『由美の考えはわかるよ』とかエクスキューズしておきながら、自分の考えを一方的に話している」 「そんなことない」という柏木の言葉を、「そんなことある」と由美は即座に否定する。 「智樹は自分のことを『男じゃなきゃ良かった』って一度でも考えたことある? ないでしょ。私は違う。どうして自分は女性に生まれたのかって、何度も考えたことがある。自分の弱さとか感じる時はいつも」 「じゃあどういった言葉をかければいいのさ? 訊きに来たのは由美だろ」  渇いた声が由美の心の中を通り抜ける。  柏木は決して自分の願望を剝き出しにしない。  恐らく、柏木にとってあらゆることは目標なのだ。  努力したら実現できる――そう思えることが、許されてることが羨ましい。 「記事のことは聞いた?」  冷静になろうと、話題を変える。 「週刊誌の件?」 「そう」 「事務所の人間から電話口で簡単に話をされたけど、よくわからなかったから、雑誌名聞いて近所のコンビニで買ってきた。そこに置いてあるよ」  柏木がベッドの下を指差す。 「読んだの?」 「買ったなら読まないと。もったいないじゃん」  柏木は笑いながら答えたが、目は笑っていなかった。 「まあ、世間から見たら、テレビや雑誌にもほとんど出ずに活動しているバンドマンはこんな感じに見えるんだろうな、って点で勉強になったよ。でも、そんなもんじゃない? さっきの芸事の話じゃないけど」 「CDの売上とか事務所の契約には影響しないの?」 「ないね」 「ドラムの件については?」 「それは合ってる。話し合いをした上で辞めてもらった」 「どうして?」 「バンドとして求めるレベルに達してなかったから。そうなると『クビ宣告』になるんだろうね。うちらのような歌のないインストバンドにとって、ドラムはリズムだけじゃなく、呼吸を整える役割があるから。うまく叩けないことは上手に歌えないことと同じなわけ。まあ、虫除け代わりになっていいんじゃない?」 「智樹は嫌われたり、誤解されたりすることに抵抗はないの?」 「誰からも嫌われない、誤解されたくなければ、どうでもいい存在になればいい。逆に、誰からも愛されたいと望むこと、どちらも自分にとっては窮屈だし幼稚だ」 「どうして?」 「自らの作品によって別の作品を圧倒した結果としての否定。自分はそれが創造することだと思っている。創造には、その本質に否定が含まれているにも関わらず、それに対する覚悟がないのは矛盾してる」  ミュージシャンとしての柏木の深い考えを初めて聞き、由美はその峻厳さに驚く。 「信じられないって顔してるね」  柏木が呟く。 「残酷だと思った?」  由美は微かに頷く。 「まあこの世界では普通にあることだよ。クビにせず続けることはできなかったのか、って訊かれても答えられない。今作を録音する。ライブではその音源を上回る演奏をしなければならない。そしてまた次の作品へ、と続いていく。できなかったらそこで終わり。チャンスは一回だけ。できなくちゃいけない時に、能力がなかったのはそいつのせい。うちらが人生でその作品を創るのもたった一回だから」  柏木はバンドの話をしていたが、由美は二人の関係に対する話として聞いていた。 「もちろんこういった考えの人間が、社会からどう見えるかについて、だいたいの想像はしていた。『作る音楽は優れていても、人間としてはクソ』とか。でも、自分としては『それがどうした』って感じかな。良い悪いを決めるのは、自分が納得できるかどうかであって、他人ではない。実家とかコネとか勝手に想像して、『やる気をなくす』『努力しても無駄だ』って考えるなら、その方が良いと思う」 「でも、多くの人が智樹のように割り切れないと思う」 「別に割り切ってるわけじゃない。数年後、どこかで野垂れ死んでるんじゃないかって思うこともある。所詮は芸事。安定した生活なんて望めない。昔から旅芸人がそうであるように、親の死に目にも会えない職業だし、収入的にも由美の方がよっぽど安定してるけど、それに対して優劣をつける気もない。自分としては、音楽を最優先にして、不要なものを削ぎ落としていった今の生活スタイルに満足している。それだけ」 「それでいいの?」 「困ったことに、張りつめた状態は嫌いじゃないんだよ。常に考え、向上しなければ生き残れないという危機感は、物事をシンプルに考えさせてくれる。英会話、ピアノ、ドラム、DTM、今だと、オーケストラ用のスコア、って感じで、今自分がしなければならないことを考え、努力する。同時に、それ以上のできないことを増やしながら」  話を聞く程、由美は惨めな気持ちになる。  柏木に勝る点が自分にいくつあるだろうか。 「智樹の感じている不安は、遊びの不安よ」  思わず口にしてしまう。 「そうかな?」 「少しの努力で何でもできるから、できない人の気持ちなんてわからないのよ」 「それを口にした所で、一体何になるのさ?」  柏木はうんざりした目で由美を見る。 「智樹は自分のこと信じているでしょ?」  この言葉に「みんなそうでしょ?」といった感じで、柏木は首を傾げる。 「あなたは強い人なの」 「そうなんだ。やった」 「興味なさそうね」 「だって、由美の言う『つよい』が何を意味するかわからないから。それってただの虚勢かもしれないじゃん?」  そうでないことは、柏木が一番わかっているはずだ。  バンドとしても個人としても、柏木は一歩ずつ先に行こうとしている。  由美は柏木と出会った時から、その背中に追いつこうと懸命に努力してきたし、『オンナ達の末路』を出版した時、肩を並べたまではいかなくとも、すぐ近くまで来れたのでは、と思った。  だが、今や自分は大きく後退し、柏木の背中ははるか遠くにある。  そんな時、ふと立ち止まって、こちらを振り向いて欲しいと願う自分がいる。 「由美は何か勘違いしてるんじゃないかな」  柏木の声で現実に引き戻される。 「強いとか勝者とかって、周りが勝手に決めつけてる幻想なんじゃない?」 「どういう意味?」 「実情を知らないってこと。例えば、由美が作曲できてすごい、って思っていたとする。でも、実はやってみたらたいしたことじゃないかもしれない。そうは言っても、ほとんどの人間は、一度でも自分でやってみようとしない。それはある意味、利口だけど、そういった人間に『すごい』『才能だ』と褒められてる感じが、どうしてもしちゃうんだよね」 「だから、それが遊びの不安ってことよ」  柏木は腑に落ちない表情をしている。 「ほとんどの人は、他人から褒められることなんて持ってない」 「自分が言っているのは、そういうことじゃない」 「じゃあどういうこと?」  由美が問い返す。 「どう言えばいいんだろう、大事なのは、本人の自信じゃないかなって」 「それこそ、他人からの評価があってこそでしょ。事実のない自信なんてただの虚妄」 「自分が言ってるのは、それ以前の行為の選択についてさ」 「同じよ」 「いや、違う。自分の行動に後悔はないってことが、その人の持つことができる唯一の自信じゃないかって」 「でも、後悔は結果次第でしょ」  柏木はそれ以上何も言わず、視線を外す。  うんざりだった。 「書類か何かあるの?」  柏木が訊ねる。 「だから、もし中絶するなら、サインとか必要じゃない?」  由美は頷く。 「明日の晩の飛行機で、自分はロンドンに行っちゃうし、一ヶ月は帰ってこないから」  由美は鞄から封筒を取り出す。  同意書に目を通した柏木は「ここに印鑑はないから、捺印はお願いしていい?」と伝えると、テーブルにあったボールペンを手にする。  だが、署名しようとしたところで、由美の方を向く。 「肝心な点を聞いてなかったけど、由美って結婚願望あったの?」  あまりにストレートな質問に、由美は答えに窮す。  柏木が書類に顔を戻す。 「言い訳とかじゃなくて、由美には結婚願望がないと思ってた。だから、これまで一緒に過ごしてこれたんだって思うよ」 「どうしてそう思う?」 「初めて由美が自分の部屋に来た時、キスしようとして拒否されたこと覚えてる?」  忘れるわけがない。 「男としては、結構『何それ』みたいな感覚だったんだけど、今日までずっとあの時の由美のままの感覚でいたから」  柏木が同意書を由美に渡す。 “柏木智樹”という几帳面な字。柏木の手書きの字を見るのは初めてだった。 「立ち会えなくてごめん」 「気にしないで。今回も長いもんね、ツアー」 「一ヶ月で23本かな。でも、アルバム発売してアジアツアーが終わっただけだから。秋には北米ツアーもあるし、年内はずっとライブ」 「大変ね」 「移動してはライブ、移動してはライブの繰り返し。肉体的なキツさはあるけど、芸事の仕事は公演だし、ツアーの時の方がずっと音楽に向き合ったシンプルな生活をしてるから、そういった点では楽なんだけど。突然、何をしたらいいかわからなくなった経験もしたから」 「それは前のバンドの時……」 「まあね。さあこれからってタイミングだったから」 「そういえば去年の今頃だっけ?」  昨年8月、動画サイトに投稿された“緊急煽動装置”のライブブートレグがネット上で話題になった。  元々その映像は、柏木達の後に登場するバンドの演奏を録画するためのテストとして、フィラデルフィアのライブハウスで撮影されたものだったが、収録されたパフォーマンスが話題になると同時に、バンドのアルバム『緊急煽動警報』が大きく売上を伸ばしていた。 「そう。あれがきっかけでバンドのファンが増えたのは事実だから感謝してるけど、自分の中ではもう完全に過去のことと思ってたからさ……」 「でも、過去は消せない」 「だとしても、今じゃないんだよ、そのために今の自分をちゃんと見てくれないのは悲しいね」  その気持ちは、今の由美の気持ちでもあった。 「当時のファンには『“緊急煽動装置”のトモキが持っていたものはなくなってしまった』って言われる。勿論、悪気はないんだろうけど。いつまで経っても、元・緊急煽動装置のトモキ……」  由美は頷く。 「特に自分は、明確に変えようと意識してきた。そうじゃないと、音楽を続けられないってわかっていたから」 「どうして?」 「カツやタケと比べると、自分には二人のような最高の本能と言うべき、天性のセンスが欠けているから」  意外な一言だった。 「“緊急煽動装置”で演奏していた時に、感じてたのは、『こいつらには敵わない』っていう絶望的な敗北感と焦燥感だった。カツは言わずもがなだと思うけど、実はあのバンドで一番すごかったのはタケだよ」 「そうなの?」 「そうだよ。あいつこそ天才。ドラマーとしては、さっきの話じゃないけど、タケのドラムは歌っている。技術とインスピレーションを兼ね備えて、どんな曲でも叩くことができる天性のグルーヴ感。加えて、アレンジや構成をよくするためのアイデアも豊富で、プロデューサーとしての能力も優れてる。結局、今の自分がやってることは、できることを増やして、センスのなさを埋めていくことだよ」 「そのタケさんは今どうしてるの?」 「あいつはアメリカでスタジオミュージシャンをしてる。本人は、全く表に出てこないけど、LAビートって呼ばれる最先端の音楽シーンで、ドラムを叩いたりプロデュースをしてる」 「すごいね」 「カツが死んだ後もタケとバンドを組みたかったし、実際話もした。でも、タケからは『お前とはもうできない』と言われた。理由は訊けなかったけど、察しはついた」  柏木の告白を聞き、由美は先程「遊びの不安」という言葉を口にした自分を恥じた。  いたたまれなくなり、ベッドから腰を上げる。 「もう行く?」 「これ以上、邪魔しちゃ悪いから」  玄関に向かう由美の後ろを柏木がついてくる。  靴を履きながら、由美は「ごめんね」と謝る。 「何のこと?」 「週刊誌の件も、この件も。色々巻き込んじゃったこと。謝ってなかったなって思って」 「由美のせいじゃないでしょ」 「ううん、私のせい」  由美は外に出ると、振り返り「ツアー気をつけてね」と声をかける。 「ありがとう」と答えた柏木だったが、急に「やっぱり送っていくよ」と言い、サンダルを履く。 「大丈夫。通りでタクシー拾うから」 「じゃあそこまでは一緒に行くよ」と言ってついてこようとする柏木に、 「ごめん、一人になりたいから。一人にして」と伝える。  柏木は答える代わりに立ち止まり、ドアを支える。  アパートの階段を降り、大通りに続く道の角を曲がるまで、背中に注がれる柏木の視線を感じた。  だが、由美は一度も振り返らず、そのまま歩き続けた。
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