第2部 8 運命という現実

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第2部 8 運命という現実

 由美がいつ出るかと考えていた、玲の精神疾患に関する記事が月刊誌に出たのは翌日のことだった。 「いつか私が狂うときが来る」~佐伯玲が隠し続けた精神科通院の過去~  凶刃に倒れてから一年。Room社による新しい動画が公開されると同時に再評価が進む、佐伯玲。  モデルとしてデビューした後、Room社の世界的キャンペーンへの起用。政界進出と死――波瀾万丈の半生の裏側には、精神の病と背中合わせで生きてきた一人の女性の姿が見えてくる。  佐伯玲が三鷹にある精神科を初めて訪れたのは、彼女が中学二年生の時だった。診察にあたった医師は、それまでも数多くの著名人の治療に携わってきた人物だ。  通院については、父である佐伯和昌以外の家族にも関知されないよう、周到に隠されてきた。事実、その後一年半続いた通院に付き添ったのは、佐伯家で長年働く家政婦の女性だった。  高校一年の夏、舞踊集団への入団と共に通院はなくなった。  佐伯玲は舞踊とモデルとしての活動を通じて、病から逃れたと考えたい所だが、完治していたわけではない。 「いつか私が狂う時が来る」というタイトルの言葉がそれで、この言葉が彼女の口から発せられたのは、ちょうどRoom社の撮影直前のことだった。元スタッフによると、当時の彼女は、かなり深刻なうつ状態だったという。  撮影直後、人々の前から姿を消した佐伯玲が、父である佐伯和昌の後継として衆議院選への出馬を表明するまでの二年間。あれほどの有名人にも関わらず、その行方は一切謎となっていたが、現在フランスのテレビ局で制作の進むドキュメンタリー番組のスタッフによると、この休養は世界各地を放浪する一種の転地療法だったようだ。  父である佐伯和昌の大怪我の報を聞き、見舞いに訪れた病室で、佐伯玲は突如政治家になる意思を伝えたとされる。  この決断は、佐伯玲の独断で、周囲を大変驚かせたが、もしかしたら、政治への使命感により、迫りくる病から逃れようとした「跳躍」だったのかもしれない。  その末路が、事件当日の行動に繋がったとするなら、彼女の死は、「精神的めまい」によるものと言えるのではないか。  記者名はなかった。  無記名で人の死に関する憶測を垂れ流すのか。  由美は電車を降りると、雑誌をホームのゴミ箱に捨てた。
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