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由美は呆然としながら駅に向かう。
塵一つない感情が、これほどまでに人を途方に暮れさせるということを、由美は初めて知った。
どれだけ取材を重ねても、どうにもならないことがある。
報道の限界。でも、自分にそんな猶予はない。
編集部に戻った由美は、すぐさまパソコンで原稿を書く。
その原稿は、ここ数週の間に伝えられた自身が関わる報道について説明したものだった。
書き上げた原稿を平井に提出する。
平井は、タイトルを見ただけで「これはダメだ」と突き返す。
予想通りの反応だった。
由美は突き返された原稿を手に富沢の元に向かう。
「何だこれは?」
「これを次号に掲載してください」
「平井には見せたか?」
「読んでくれませんでした」
富沢は原稿を受け取ると、その場で読み始める。
「面白いじゃないか」
富沢が顔を上げる。
「これは中川の日記か?」
呆れ声だった。
「自分の感情を剝き出しにした原稿を書きやがって。この雑誌はお前の本じゃないんだぞ」
編集部内にいた誰もが手を止め、二人の様子を窺う。
「自分は正義の味方で、今は悲劇のヒロインってか。書かれる側にとっては加害者である記者が、被害者を装って記事を書くことの滑稽さ。そんなこともわからないとは」
もっともな指摘だった。
「しばらく書くな」
由美は固まる。
「こんな記事を書かれても迷惑なだけだ」
「ですが……」
「これ要るか?」
富沢が訊ねる。
「いいえ」
富沢が、自席のシュレッダーに原稿を差し込む。
ガガガガガガという裁断音が編集部に響く。
由美は自席に戻る。
同僚から注がれる視線。
ちょうど週刊プレス編集部に配属されたばかりの頃、捏造記事を書いたとして、伝統協会から告訴された記者がいた。当時の由美が、その記者を「失敗したらこうなる」見本と眺めていたように、自分も見られる日が来るとは。
パソコンを鞄にしまい、編集部を出る。
都営新宿線に乗り、かつて柏木が勤めていたバーに向かう。
とにかく酔いたい気分だった。全てがどうでもよかった。
由美は、営業を始めたばかりのバーに入ると、赤ワインを注文し、一人飲み続けた。
どうにもならない。どうしようもない。どうすればいいのかわからない。
溺れたかった。溺れることで忘れたかった。
それでも「取り返しのつかない失敗」という思いは消えない。
それが由美に過去を思い出させる。
小学二年生の時、日本舞踊の発表会があった。
前年に見た玲の舞踊の美しさに、由美は自分も玲のように舞いたいと、発表会の前から稽古以外の時間も熱心に練習した。
その様子を見た母は、ある日の夕食時「由美の舞いを見てあげて」と玲に頼んだ。
「由美がいいなら、構わないけど……」
玲の言葉に、由美は里芋の煮物に伸ばしかけた箸を止める。
見てもらった方が良いことはわかっていた。
何も言わない由美に母が声を掛ける。
「せっかく熱心に練習してるんだから、見てもらえばいいじゃない」
「いい。自分でやる」
意地だった。
「でも……ねえ?」と母は玲を見るが、玲は何も言わない。
「一人でやりたいの」
由美は自分に言い聞かせるように答えた。
発表会当日、由美は市民ホールの舞台中央に進む。
照明に照らされながら、音楽に合わせて、舞い始める。
自信を持って、芯のあるやわらかさを意識すること。
何度も練習した動きができれば大丈夫。緩急を意識して。
次第に客席の空気を感じる余裕が出てくる。
開いた扇を返しながら、膝を屈め、ゆっくりと歩を進める。
そう。
気づいた時には、舞台に倒れていた。視線の先には、手から離れた扇が開いたまま落ちている。
音楽は続いていた。
客席のざわめきが聞こえ、ようやく「失敗した」と実感する。
どこから始めたらいいのかわからなかった。それでも、由美は立ち上がる。
「もういい!」
和昌の声が聞こえた。
この日に限って、こういった発表会の類いには滅多に顔を出さない和昌を、母が連れてきていた。
由美は、ぎくしゃくしながらも、扇を拾い、舞いに戻ろうとする。
「もういいと言ってるだろ!」
再度の怒声が聞こえた瞬間、頭の中が真っ白になる。
由美は顔を伏せ、舞台袖に歩いて行く。
それが由美の失敗のイメージだった。
失敗は恥ずかしい。失敗は惨め。だから、失敗してはならない。
「あの時と同じじゃないか」
由美はグラスの赤ワインを飲み干す。
「何も変わっちゃいない」
そう呟いた由美は、二杯飲んだ後に頼んだボトルから自分のグラスに注ぐ。
あの日、帰宅した由美を待っていたのは、怒り心頭の和昌だった。
和昌は由美を応接室に呼ぶと、「どうしてあんな失敗をした?」と訊ねた。
そんなことは由美にもわからなかった。
「失敗するなとは言わない。ただ、今日みたいな失敗はだめだ」
「あなた」と和昌の隣に座った母が咎めるが、和昌は無視して続ける。
「おねえちゃんより上手にできないなら止めたらどうだ?」
由美は俯く。
玲にできなくて、自分にできること。そんなことがあるなんて、当時の由美には想像できなかった。
今以てわかっていない。
由美は心配する店主に「大丈夫ですから」と繰り返すと、エレベーターで一階に降りる。
腕時計を見る。まだ22時過ぎだったので、電車で帰ることにする。
コマの飛んだ映画のような世界を、ふらつきながら駅に向かう。
ホームに降り、やってきた電車に乗る。
左右を見るが、空いている席はない。
由美は車両の連結部分のドアにもたれかかる。
次に気づいた時、電車は最寄駅に着いていた。
慌てて電車を降りる。
身体の記憶に任せて、マンションへの道を進む。
部屋に入ると同時に、猛烈な吐き気に襲われる。由美はトイレに駆け込むと、便座に屈み込んで、何度も嘔吐する。
そのまま眠ってしまった由美が寒さと共に目覚める。
目の前に拡がる赤黒い吐瀉物を見た瞬間、自分の口から流産したのではないかと思い、血の気が引く。
由美は、震えながらゆっくりと便座の蓋を閉めると、水を流す。
「一体自分は何をしているのか」という思いで、しばらくの間立ち上がることができなかった。
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