第2部 9 故郷

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 その日の晩、富山駅近くのビジネスホテルのデスクで、昨日の夕方平井から受け取ったメールを眺めていた。 “笹塚がここを取材してみたらいいと言っている”ということで、“川端孝之の母、川端幸子”と住所が書かれていた。  名前は知っていた。  川端貴之は、高木瑠香のかつての交際相手だ。  だが、男性は高木瑠香と出かけた花火大会の帰り道に、交通事故で亡くなっている。  母親は存命のはずだが、事件後も一切の取材を受けておらず、会ってくれる可能性は低かった。それでも、今日の夕方、近くのファミレスで書いた手紙を、自宅の郵便受けに投函した。  なるようにしかならない。たとえそうだとしても、今何をするか。  由美は立ち上がると、シャワールームに向かう。  早朝に高木瑠香の高校時代の担任教諭から話を聞き、その後、中学時代の友人に話を聞いてから、川端幸子の家に向かう。  15時過ぎだった。  インターホンを押す。  昨日の手紙で訪問時刻については伝えていた。併せて、“取材を受けたくない時は、居留守を使っていただいて構いません”と書いていた。  反応はないが、もう一度は鳴らさず、そのまま待つ。  二分経ち、そろそろ行こうかと思ったタイミングで、玄関のドアが開く。 「週刊プレスの中川です」  由美が頭を下げる。  女性は無言で由美の姿を眺めると「どうぞお入りください」と伝える。  由美は門を開け、玄関前の階段を上がる。  玄関傍に植えられた松の木が立派だった。 「失礼します」  由美が中に入る。  女性はスリッパを出してから、「少し散らかってますが、どうぞ」と、由美を和室に案内する。  由美は仏壇で合掌する。掃除の行き届いた仏壇に置かれた二枚の写真には、それぞれ別の若い男性の姿が映っていた。  お茶を淹れて戻ってきた女性が、由美の正面に座る。 「ありがとうございます」と頭を下げた由美は、「よく手入れされたお庭ですね」と言って話を始める。 「これくらいしかすることがないので」  川端幸子が小さな声で答える。 「あちらが貴之さんですね」  由美が一層若い方の男性の写真を見ると、川端は頷いた。 「こちらはご主人ですか?」 「はい」 「随分と若い時に亡くなられたんですね」 「主人は、貴之が生まれてすぐ、工場の爆発事故で亡くなりました」  由美は話を聞きながら、鞄からICレコーダーを取り出す。 「貴之は生まれた時から目が見えませんでした。いわゆる全盲というやつです」 「お話の途中すいませんが、録音させていただいてもよろしいですか?」  川端が頷いた所で、由美はレコーダーの電源を入れる。 「とにかくショックで、育てられるわけがないと、無理心中も考えました。ですが、貴之は主人が遺してくれた命です。そして、貴之には私しかいません。そのため、できるだけのことをしてあげたいと、会社からの慰謝料と生命保険、遺族年金で、親一人子一人の生活を続けてきました」 「はい」と由美は頷く。 「繰り返しになりますが、あの子には私しかいませんでした。もちろん周囲で支えてくれる人はたくさんいましたが、貴之をどう育てていくか考えることのできる人間は私だけです」  川端が言葉を止める。由美は静かに続きを待つ。 「ですが、貴之が大きくなるにつれ、どうしても私の手に負えないことがありました。それは性についてです」  マスメディアでは取り上げられることは少ないが、障害者の性についてはよく聞く話だ。 「そのことについては、ずっと考えてました。それで、貴之が高校を卒業した時、私は派遣型の性風俗店に電話をしました。幾つか断られた後、引き受けてくれたお店があり、彼女がやってきました」 「彼女とは高木瑠香さんですね」  川端は頷く。 「第一印象はいかがでしたか?」 「最初は若さに驚きました。でも、とても礼儀正しい子で、部屋に上げる前に、幾つか注意事項を伝えましたが、とても熱心に聞いてました。それから、私は携帯電話の番号を伝え、外出しました」  川端は再度言葉を止めた。ただ、由美にとっても、自分から切り出して先を聞くのが憚られる話題であった。 「部屋に戻った私に、貴之は『ありがとう』と言いました。けれども、私は親として、パンドラの箱を開けてしまったような気がして、素っ気ない対応しかできませんでした」 「その後も依頼を?」 「はい。一ヶ月後、再び彼女に来てもらい、更に一ヶ月後にもう一回。その後、貴之から彼女と交際を始めたことを聞かされました」 「その時のお気持ちは?」 「もちろん反対でした。『わざわざ性風俗で働く女性でなくても』と言いました。ですが、その言葉を聞いた貴之が発した怒りの言葉と悲しみの表情に、それ以上私は何も言うことができませんでした。私はすぐに連絡を取り、彼女と会い、『二度と貴之と会わないで欲しい』と頼みました。ですが、彼女は、『もし本当にそうお思いなら、貴之さんに伝えるべきではないですか』と答えました。『もちろんそのつもりです』と続ける私に、『でも、この問題はそういった対応でどうにかなるものではないと思います』と彼女は言いました。私は『これはあの子と私の問題です』と言って席を立ちました。ですが、結局の所、そう思っていたのは私だけで、貴之にとっては、私が口を出す問題ではありませんでした」  そう話す川端幸子の表情は淡々としていた。 「その後は?」 「私は貴之に彼女と会ったことを伝えましたが、二人はその後も会うことを止めませんでしたし、私も黙認しました。そんなある日、貴之が近所の花火大会に行きたいと言いました。誰と行くのかと尋ねる私に、『友達』とあの子は答えましたが、彼女と行くことはわかりました。  今思えば、あの子なりの優しさだったんでしょうね。なぜなら、別に私に伝えなくてもいい訳ですから。私は迷いました。迷った末、22時までには必ず帰ること、会場を出る前と最寄駅に着いた時は、必ず連絡を入れることを条件に許しました。貴之は喜びましたよ。『初めて花火を間近で見ることができる』と」  川端の言葉に由美が不思議そうな表情を浮かべると、 「視覚障害者にとっては、視覚以外の全て、聞くこと、触ること、におい、味、なにより肉体で空気を感じることが、見ることなのです」と説明する。 「当日、私は『楽しんできなさい』と言って送り出しました。それでも、送り出した後は、何をするにも落ち着かず、何度も自分も会場に行こうかと考えました。それでも、電話がかかってくるはずでしたし、20時過ぎに興奮した声で『これから会場を出る』と電話をもらってからは、投げ出していた夕食の準備を始めました。  ですが、夕食の支度が整っても、最寄駅に着いたという連絡はなく、私はいてもたってもいられず、駅に向かいました。駅に着き、電車が入ってきた所で、携帯電話が鳴りました。知らない番号からで、私は何かあったと直感しました。  看護婦は『息子さんが交通事故に遭った』と言いました。私はタクシーを拾おうとしましたが、花火大会の日で、駅前には一台もタクシーが停まってませんでした。駅の電話からタクシー会社に連絡しても『今日は花火大会の日ですから』と言われ、結局、私は病院まで走りました」  川端が言葉を止める。目を瞑っていた。 「見ただけでもう長くないとわかる重傷でした。医師の説明でも、今晩持つかどうかということで、私は貴之の手を握り続けました」  再度、言葉を止める。膝の上で強く握られた手。 「私は自分を責めました。こんなことになるなら、どんな手を使っても止めるべきだったと。そんな思いに取り憑かれ、最初、私は貴之が目を開けていることに気づきませんでした。『ごめんね』と謝る私に、貴之は笑みを見せてから、彼女の無事について訊ねました。正直、その瞬間まで、彼女のことなど気にも留めてませんでしたが、『無事だから』と伝えると、ほっとした表情を見せました。  その時、私は自らの負けを悟りました。私は彼女に負けたのです。完敗でした。  それから、貴之は言いました。『あれだけの人混みにいても、僕はまったく怖くなかった。彼女は僕の心までちゃんと守ってくれた。だから彼女を責めないで』と」 「実際、高木さんの怪我はどうだったのですか?」 「彼女は貴之に引っ張られた時に、転倒して頭を打ちましたが、大きな怪我はありませんでした」 「事故の状況は?」 「二人は混雑を避けるため、最後の花火が終わる前に会場を出ましたが、それが徒となりました。駅に向かう途中の交差点で、軽自動車が信号無視して突っ込んできたのです。運転していた女性は、携帯電話で通話しながら、花火に見とれていたために反応が遅れました」 「どうして貴之さんは気づけたんですか?」 「貴之が気づけたのは、あの子が視覚障害者だからです。貴之には花火の打ち上げ音の中でも自動車の音が聞こえたのでしょう」 「その後、彼女とはお会いになられましたか?」 「彼女は、毎日家まで来ましたが、インターホン越しに『二度と来ないで』と追い返しました。それでも、懲りずにやって来る彼女に、ある日私は外に出て『あなたが貴之を殺したの! だから二度と私の前に姿を現さないで!』と叫びました。彼女は深々と頭を下げてました。それが、私の見た彼女の最後の姿です」 「その後、報道を聞いて、どう思われました?」 「最初は驚き、怒りを感じました。貴之が身を挺して守った命で、他人の命を奪うなんて」  由美は川端の激しい怒りを感じたが、それでも、彼女の口調は淡々としていた。 「ですが、最早どうでもいいことです。私にとっての彼女は、あくまで貴之がいての存在ですから」 「お話いただき、ありがとうございました」  由美は一礼してから、レコーダーの電源を切り、鞄にしまう。  川端も軽く一礼すると、それまで全く手をつけていなかったお茶に口をつける。  由美も「いただきます」と言い、一口飲む。  清らかな時間だった。  川端が湯呑みを置く。 「中川さん、あなたもしかして妊娠していらっしゃる?」  川端の言葉に、由美は目を見開く。 「やっぱり……」 「どうしておわかりに?」 「なんでしょう、貴之のように全身の感覚を集中させて生きる子の傍にいたからか、何となくわかるんです」  川端はそう言うと、両手を膝の上に戻して続ける。 「今の質問の答えが違ったらお話しするつもりはなかったんですが、もし私の感覚が正しければ、最後に会った時の彼女も妊娠していたはずです」 「本当ですか?」  川端は頷く。 「私が彼女に関して唯一気にしているのはそのことです。もし妊娠していたのなら、彼女はその子をどうしたのか。中川さんは彼女と面会してますか?」 「はい」 「今度彼女に訊いてもらえませんか? そして、その答えがどんなものであっても、私に伝えてください」 「わかりました。必ずお知らせします」  そう言って、由美は謝礼を差し出したが、「謝礼はその答えで」と川端は固辞した。  玄関で靴を履く由美に、「でもよかった。取材相手があなたのような人で」と川端が声をかける。 「今の私にそんな言葉をかけてくける方はほとんどいませんね」 「どうしてですか?」 「つい先日、私は捏造記事を書いた記者として、話題になりましたから」 「そうだったの?」 「黙っていて申し訳ございません」 「いいんです。恐らくその話を先に聞いたとしても、私は取材を受けてたと思います」 「どうしてですか?」 「どうしてでしょう。お手紙を受け取った時は、断ろうと思ってましたし、ピンポンを聞いた時も、表に出るつもりはありませんでした。なのに、不思議なことに、表であなたの姿を見たら、取材を受けようと思ったんです」 「ありがとうございます」  由美は再度頭を下げた。 「貴之の事件でも、運転手の女性は、最初『携帯電話で通話していた』『花火に見とれていた』と話してました。それが、あの子が視覚障害者とわかると、『事故の前に電話は切っていた』『花火も見ていなかった』『青信号なのに向こうが飛び出してきた』と証言を翻しました」  由美は言葉が出てこなかったが、淡々と話す川端の様子から、こういったことはこれまで何度もあったのだろうと思った。 「私は中川さんを一目見た時、信頼していいと思いました。これから先、中川さんが私の話をどうされても、私にとっては、自分が信頼できると思った人に対して、誠実であった気持ちこそが大事です。それは、貴之が彼女に対して抱いていたものと思います」  川端幸子の重い言葉を背負い、由美はその場を後にした。
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