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上越新幹線が東京駅に着く直前に受け取った久保田からのSMSに従い、由美は丸の内南口近くに停車していたミニバンに乗る。一旦、六本木の地下駐車場に入った所で、運転手の指示により、隣に停車する別のバンに乗り換える。
再出発した車が、西新宿にある外資系ホテルの駐車場に入っていく。地下の搬入口で降ろされた由美は、待機していたホテルマンの後について、業務用エレベーターで高層階に向かう。
目的の部屋の前で、ホテルマンがドアを二度ノックする。
返事はなかったが、カードキーをかざして、由美を中に通す。
ブルーのジャケットを着た久保田が、正面のテーブルでノートパソコンのキーを叩いていた。
「あと一分ほど、そちらでお待ちいただけますか?」
久保田の言葉に、由美は頷き、部屋を見まわす。ツインルームだが、スタンダードではなく、デラックス。正面に見える大きな窓のカーテンは閉まっていた。
パソコンを閉じた久保田が「お待たせしました」と言って立ち上がる。
「こちらの都合で、急遽お越し頂き、申し訳ございません」
「こちらこそ。お忙しい中ありがとうございます」
久保田に案内され、窓際に置かれたチェアに向かい合って座る。
「無事にお越しいただけてよかったです」
久保田が口を開く。
「『無事に』とは?」
「あまり詳しくお話できませんが、状況次第では辿り着けなかったりもするので」
「そうなんですか?」
「ええ。ですが、今日はそんなに複雑なことはしてません」
彼女ほどになると、誰にも知られずに誰かと会うことは、そんなに難しくないのだろう。
「玲の記事を書くために取材されてると?」
早速、久保田が本題に入る。
「はい」
「お訊きになりたいのはどのようなことですか?」
由美は鞄からICレコーダーを取り出すと、「二点あります。一つは、ここ最近の報道について。もう一つは、久保田さんの知る佐伯玲についてです」と伝える。
「どちらもお答えできる範囲内であれば、構いませんよ」
そう答えた久保田も胸ポケットからICレコーダーを取り出し、テーブルに置く。
「では早速。ここ数ヶ月の佐伯玲に関する様々な報道に対して、どのようにお感じになられてますか?」
「そうですね。間違った報道が大変多いな、と」
「具体的には?」
「まずは、事務所スタッフの出馬についてですが、そのような予定は一切ありません。次に玲の精神疾患について。中学時代の通院の件は、私と出会う前のことですから、お答えできる立場にありません。また、記事にあった『いつか私が狂う時がくる』という言葉は、病気に関することではなく、舞踊の表現方法に関する話をしていた時に玲が口にした言葉で、正確には『私は狂ったとされてしまうのかしら』という言葉だと思います」
「創作の過程で出た言葉ということですか?」
「はい。当時、玲は様々なクリエイターとのコラボレーションを通じて、新しい舞踊表現を模索していました。アイデア出しに際しては、柔軟な発想を促すため、かなり非現実的なアイデア、例えば、『NASAの宇宙服を着て南極で舞踊するとどうなるか』などが検討されました。その際に、彼女が口にしたのが、先程の言葉です。その言葉の一部を切り取り、状況を隠して報道されたと推測しています」
由美は話を聞きながら、久保田のスマートさに感心していた。
「二年間の空白期間に関しては?」
「あの旅はただの休暇です。だいぶ前に報道されたことがありましたが、玲はRoom社の撮影で1億ドルの報酬を受け取ってましたし、彼女から見聞を広めたいという希望もあり、現地で撮影しながら、二人で世界中をまわりました。それ以上の理由はありません」
「当時の報道でも非難された、報酬の額についてはいかがお考えですか?」
「個人に対する報酬として、人々が感情的に非難したくなる理由はわからなくもないですが、私個人としては、妥当な金額と思ってます」
「その理由は?」
「玲はRoom社のシンボルとして選ばれたのです。同社には“Computer,Life,Design”という経営理念がありますが、ブランドイメージだけでなく、製品デザイン、会社の将来まで、その全てについて彼女を指針にすると定められています」
わかるようでわからなかった。
由美の表情からそのことを察したのか、久保田が補足する。
「例えば、新製品のデザインとしてA案とB案の二つがあったとします。もちろんそれ以外にも様々な観点から検討されますが、最終的にどちらかを決定するのは、そのデザインが『どれだけ玲のようであるか』です。会社の方向性を考える時も、その将来像が『どれだけ玲のようであるか』、社員一人一人のレベルでも、その行動が『どれだけ玲のようであるか』が大切にされます。
その結果、2007年のキャンペーン以降急成長したRoom社の昨年の年間純利益は400億ドルで、ここ5年の累計も、1000億ドルを越えます。そのきっかけに、玲のキャンペーンがあり、以降の成長への多大な貢献を考えると、少しはご理解いただけるのではないでしょうか」
「Room社とはそのような契約を?」
「はい。少なくとも同社が倒産しない限り、玲を商用利用できるのはRoom社だけです。そういった制約があってこその報酬です」
「そのような事情があるなら、玲やRoom社のブランドイメージを守るために、誤った報道に対して訴訟等を検討しても構わないと思うのですが、そちらについては何かお考えですか?」
「今の所、訴訟等は考えてません」
「どうしてですか?」
「報道が事実と異なることを証明するために明らかにする内容が、別の記事のネタにされてしまうからです」
「ですが、このままだと、玲が精神疾患であったというイメージが流布され続けることになりますが?」
「それと彼女の功績にどのような関係がありますか。何よりそういったイメージに嬉々として飛びつく人達に届く言葉はありません」
久保田の口調は静かだったが、だからこそ、強固な意思が感じられた。
「では、彼女が政治家になった経緯について、お窺いしていいですか?」
「それは、玲が『そうする』と言ったからです」
由美は続きの言葉を待ったが、それ以上、久保田からの説明はなかった。
「それだけですか?」
「それだけです。玲が『そうする』と言った。私としてはそれで十分です」
戸惑うしかなかった。
「もちろん最初に話を聞いた時は驚きました。突然でしたから」
「それで仕事として受け入れることができましたか?」
「はい」
「それはどうして?」
「当時、既に10年以上一緒に過ごしてましたが、玲と私の判断が違ったとして、いつも私の予想以上の結果を出すのが玲でしたから」
「今回も大丈夫だろうと?」
「ええ」
ここまでの話を聞いて由美が感じたのは、玲に対する久保田の絶大な信頼だった。同時に、過大とも思えた。
「そこまでいくと、私としては信仰に近いものを感じてしまうのですが?」
「そのようにお感じになるのは、不思議ではないと思います」
「それでも構わないと?」
「外部からそのように見えることがあったとしても、間近で見ている私たちは、玲が悩む姿、苦しむ姿、そして自らを追い込む姿を知っています。私たちは、そんな彼女を信頼して支えてきただけです」
「玲は何を目指してたんでしょう?」
「難しい質問ですね」
そう言って、久保田は少し考えた。
「強いて言うなら、モデルです」
「モデルですか?」
「もう少しわかりやすく言うと、イノベーティブなモデルと言えるのかもしれませんが、これ以上は説明できません」
「どうしてですか?」
「そもそも、その素となるのは、玲の持っていた超人的な感覚です。それらに拠るものを彼女のモデルとするなら、証明できるのは本人だけです」
「とてもじゃないですが、私には理解できません」
「私としてもこれが精一杯ですね。玲は『天才』という言葉で説明できる人ではありませんから」
そう口にした久保田は、「何かお飲みになりますか?」と言って席を立つ。
「お水を」
由美の答えに、久保田は備え付けの冷蔵庫から紙コップとミネラルウォーターを手に戻ってくる。
コップに注ぎ一口飲む。水に味がある気がした。
頭が熱く背中が冷たいのは、緊張と疲労のためだろうか。
「“U-Society”という思想は、彼女のモデルの一つですか?」
「はい。ですが、あの言葉を創ったのは私です」
「そうだったんですか?」
由美は驚きの声をあげる。
「もちろん玲の思いを聞いた上で、私がそれを象徴するフレーズとして提案したもので、彼女も承諾しています」
「てっきり玲本人が創ったものと思ってました」
「玲の言語力はかなりのものでしたが、一方で、言葉を恐れてもいました」
「どういうことですか?」
「例えば『やさしさ』という言葉で表現されるものに、玲が『臆病さ』や『残酷さ』を見ていたとしても、その言葉に表れることはありません。そういったズレ――人々が言葉を通じて理解するものと自身の感覚とのギャップに、彼女はいつも苦しんでいました。玲の死後、進んでいた出版計画が早々に頓挫したのも、彼女の感覚的な思想を言葉に翻訳できなかったからです」
久保田の言葉通り、実際、玲の国会での答弁は見事なものだった。
海外の政財界から得た最新情報や先進事例を知らせ、政局ではなく政策に関する議論を促す。ただ、そういった内容にメディアが注目したことはほとんどなかった。
「佐伯さんの目指す社会は、この国の実情に合っていないのでは?」という党幹事長の発言に対する、「では、幹事長の考える20年後のあるべき姿と取るべき施策は?」という真っ当な返答は、目上の者に対する敬意を欠いた表現とされ、スポーツ紙には、“お嬢様議員が党幹事長と対立”と書かれる。
「女性の社会進出を」とする政府案には首肯するのに、「女性の視点から社会を再構成すべき」とする玲の考えには非難が起こる。
「彼女が定期的に街頭演説を始めた理由は何でしたか?」
「それは恐らく、先程も言った彼女がイノベーティブなモデルであろうとしたからだと思います」
由美が頷く。
「人々は安定として、変わらないことを求めます。ですが、変化しないことは、目指すものもなくゆっくりと悪くなっていくということ。ここからは推測ですが、玲は彼女の目指すモデルと現実とのギャップを埋めなければ、と感じていたのだと思います」
「結果、刺されることになった」
「はい。そうです」
言葉が止まる。
「止めておけばと思うことはありますか?」
「たくさんあります。街頭演説についても政治家についても。それでも、最後は玲が望んだことでしたから。私はそんな彼女を信じ、最後まで支えることができたと思ってます」
そして、今もこの人は玲を支えているのだ。
久保田を見て、ある人は「羨ましい」と言い、ある人は「不幸」と言うだろう。由美にはその両方があった。だから口を噤んだ。
「結局の所、玲にとってのモデルとは何だったんでしょう?」
「舞踊が、最も近いものであったことは確かです。モデルを舞い、舞うことがモデルである、そんな関係でした」
「では、舞踊のモデルとは?」
「何でしょう。玲は舞踊について語ることはほとんどありませんでしたから」
「それでも、何か覚えていることはありませんか?」
「あれは“Crow in the Darkness”のバルセロナ公演だったと思います。開演前、真っ暗な舞台袖で呟いた一言……」
由美は言葉を待つ。
「誰かが闇の中で踊らなければならない」
由美は繰り返す。
「誰かが闇の中で踊らなければならない」
「もしかしたら、この言葉こそが玲の踊る理由だったかもしれません」
「どうして闇の中なのでしょう?」
「さすがにそこまではわかりません」
そう言った久保田は、初めて笑みをこぼした。
「そろそろいいですか?」
すぐに表情を戻した久保田が声をかける。
「最後に一つだけ。なぜ玲は高木瑠香に向かっていったのか。わからない点もたくさんあると思いますが、久保田さんはどのようにお考えですか?」
「それこそ、わからない点だらけです。でも、玲には何かが見えていた。だから、あのような行動を取った。そう信じて、考え続けています。いつかわかる日が来た時に気づけるように」
「ありがとうございました」
由美は御礼を言い、ICレコーダーをしまう。
その間に、久保田は携帯電話で電話をかけたかと思えば、一言も話さず電話を切る。
恐らくすぐに迎えが来る。
「あの……」
由美が口を開く。最後に聞いておかなければならないことがあった。
「今回、どうして私の取材を受けてくれたのですか? しかもこんな急なタイミングで」
久保田は無言で由美を見つめてから「それはお答えできません」と答えた。
由美もまた久保田を見つめる。だが、その瞳には既に鍵がかかっていた。
ドアがノックされる。
久保田はその場に立ったまま、由美にドアまで向かうよう促す。
「今日は別のホテルに泊まっていただきます。もちろん、料金はこちらでお支払いしますのでご心配なく」
ドアが開く。先程由美を部屋まで案内したホテルマンが立っていた。
部屋を出た由美は「今日はありがとうございました」と頭を下げる。
久保田が小さく頷いた所で、すぐにホテルマンがドアを閉める。
由美は来た時と同じ経路で地下駐車場まで降り、停まっていた別のバンに乗せられる。
バンは裏道を抜けながら、渋谷駅近くのホテルで由美を降ろす。
新宿の時と同じく、待っていたホテルマンについて、従業員エレベーターで客室に向かい、渡されたルームキーで部屋に入る。
一人で泊まるには広すぎる部屋だった。
荷物を置いてカーテンを開ける。
明るい東京の夜。
由美はすぐにカーテンを閉める。眼の奥が重かった。
シャワーを浴びて、ベッドに潜りこむ。
長い一日だった。
川端幸子と久保田の両方から話を聞いたことが、同じ日の出来事とは思えなかった。
疲れているはずなのに、なかなか眠れない由美が思い出したのは、まだ小学校に入学する前の夏の出来事。
和昌に連れられ、家族で花火大会に出かけた。
初めて間近で見る打ち上げ花火に、大興奮したことを覚えている。
花火大会が終わった時、一緒に来た和昌の姿はなく、ごった返す人の中を母と手を繋ぎながら歩いた。
途中、屋台に並べられたお面を見た。
屋台の明かりに照らされたお面の陰影に吸い寄せられる。
気づけば、母の姿はなかった。探そうにも人の壁が立ちはだかる。
すぐに迷子になったとわかったが、どうしたらいいのかわからなかった。一方で、周囲に悟られぬよう、家族と待ち合わせる少女を装う。
だが、心の中は不安で押し潰されそうだった。
きっと家族が見つけてくれるだろうという考えも、初めて見る人の多さに押し流される。
不安に堪えきれず目を瞑る。周囲の音が一層大きなものとなる。
「由美」と呼ぶ声が聞こえたのはその時だ。
恐る恐る目を開ける。
和昌と燕が着せようとする浴衣を嫌がり、普段着で来た玲がいた。
いつからそこにいたのか、どうやって見つけたのかもわからなかったが、玲を見た瞬間、安心して涙が溢れた。
「大丈夫だから」
「ほら泣いちゃだめ」
玲は何度も声を掛けてくれたが、涙は止まらなかった。
玲が黙る。彼女の声が聞こえなくなった瞬間、再び不安に襲われる。
堪らず目を開ける。
覗き込む玲。その瞳は黒く燃えていた。
玲は由美の両手を左手に握らせると、「ギュッとして」と言う。
「もっと」「もっと」という呼びかけに力の限り握る。
「由美は力持ちね。それだけ力があれば大丈夫」
その言葉を聞いた瞬間、嘘のように涙は消えた。
そのまま手を引かれ、人混みに入っていく。
自分よりも背の髙い大人達の間を立ち止まることなく歩いて行く。
全く怖くなかった。
玲の背中を見ながら、「どうしてお姉ちゃんは立ち止まらず進むことができるのか」と思ったが、当時の由美の答えは「お姉ちゃんだから」だった。
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