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第2部 11 呪われた姫
眠りについてすぐ、ベッドテーブルに置いたプライベートの携帯電話が鳴る。
画面に映る番号は実家のものだ。
時間を見る。午前5時を過ぎたところ。
「何事か」と思いながら通話のボタンを押す。
――もしもし
応じるが反応はない。
――もしもし
もう一度呼ぶ。
――あなたなんてことをしてくれたの
母の声だった。ただし、声の調子は、尋常じゃない。
――ちょっとどうしたの? 一体何?
全く状況が飲み込めない。
――よくもそんな口が。これで父さんは終わりよ、佐伯家も。やっぱりあなたを週刊誌記者なんかにするんじゃなかった
――母さん落ち着いて。だから一体何の話?
――知らないとは言わせない。『週刊プレス』というのは、あなたの雑誌でしょ? もう信じられない。たしかにあなたには話してなかった。でも、だからといってあの書き方はないでしょう? 父さんがあなたを勘当したことについて、今日まで私は賛成も反対もしてこなかったけど、今ならあの時、父さんが勘当した理由もわかるし、賛成よ。でも、もう遅すぎる……
――母さん
――『母さん』と呼ばないで。もうあなたは佐伯家の人間ではない
電話が切れた。何が何だかわからない。
すぐに仕事用の携帯電話が鳴る。平井からだ。
――平井さん
叫ぶように出る。
――中川か?
――はい
――その様子だと誰かに聞いたか。中川、あの話は本当か?
――何があったんですか。ついさっきかかってきた母からの電話でも、うちの雑誌の名前を口にしただけで……
――佐伯玲が、佐伯夫妻の子どもではないということだ
――え?
平井が何を言っているのか全くわからない。
――どういうことですか?
――だから、佐伯玲は、佐伯和昌と家政婦の間にできた子どもということだ
はっきりと聞こえた。でも、理解が追いつかない。
――中川?
平井が心配そうな声で呼ぶ。
――その記事が……
すぐに言葉が出てこなかった。
――その記事が……うちの雑誌に載ったんですか?
――そうだ
――記者は? 誰が書いたんですか?
――わからない。そもそもが、校了後の差替。しかも、異例中の異例だが、見本誌は印刷工場内のみでの取り扱いにして、あとはゴーだ
――ということは編集長が?
――どういう形で動いてたかはわからないが、恐らく富沢の独断、独占スクープを狙ったものだ
なんてことだ。由美は言葉を失う。
――それとだ、中川。本日付で、お前に異動の辞令が出ている
――どこですか……
――野口記念文化財団だ
全くの別会社。つまり、全ては富沢の計画通りということだった。
――もう私は記者じゃないんですね
由美の言葉に、平井は何も答えなかった。
――それで記事についてだが……
――いいです。自分で読みます
――そうか……
――はい。平井さん色々ありがとうございました
電話を切った由美は、すぐに仕事用の携帯電話の電源を落とすと、そのままベッドの上で愕然とする。
昨晩、久保田が由美の取材を受けたのは、この記事があったからだろう。
彼女が取材を通じて言い続けていたこと――それは、世間がどのような目で彼女を見たとしても、玲は玲であるということだった。
由美はベッドから降り、カーテンを開ける。
日が昇り始めていた。
もう終わりだ。私は全てを失った。
どうすればいい? このホテルを出た後、どこに向かえばいい?
まずは記事を読む必要がある。でも、それをしたところで?
高木瑠香に関する取材と、川端幸子と久保田へのインタビュー素材はあるが、発表できる媒体があるかどうか。そもそも、今後記者として活動できるかもわからない。
暗澹たる気持ちだ。
でも、ここにいても何も始まらない。
由美は顔を洗い、軽く化粧をすると、荷物をまとめる。
ホテルをチェックアウトした由美は、傍のコンビニで、“元秘書が明かした衝撃事実! 佐伯玲は「婚外子」だった!”と大きく書かれた『週刊プレス』を買ってから、円山町まで歩き、早朝から営業するカフェに入る。
オレンジジュースを注文し、奥の席で週刊誌を開く。
“元秘書が明かした衝撃事実! 佐伯玲は「婚外子」だった!”
「彼女(佐伯玲)は佐伯家の姫でした。でも呪われた存在でもあった。そのことを知っていただけに、常に私は複雑な感情を抱きながら、彼女を見てました」
そう語るのは、1976年の衆議院議員当選時から2009年の政界引退まで、佐伯和昌の公設第一秘書を務めた西村氏だ。
「私が秘書になったのは、1976年、ちょうど衆議院議員選挙で初当選した直後でした」
当時、佐伯夫妻は結婚6年目。和昌の年齢は31歳、妻の燕は27歳だった。
「徐々に周囲の人間に焦りが生まれ始めていた時期です。特に、和昌と義理の母にあたるN氏は必死でした」
早くから跡継ぎを望んでいた和昌が離婚も考える一方で、「それだけはさせない」とするN氏。両者の考えは平行線のまま、二年が経過することとなる。
和昌が強気になれなかったのは、氏の当選に、妻の生家――かつて日本を代表した化粧品企業を創業したN家――による支援が大きかったためだ。
ちょうどその頃、家政婦として佐伯家に雇われたのが、当時19歳だったTさんだ。
「『彼女に産ませたらどうか』という提案をN氏から受けたのは、それから一年ほど経った頃でした。私は反対しました。家族との距離が近すぎるし、何よりTさんにとって、あまりに酷じゃないかと。ですが、私にできたのはそこまででした。結局、Tさんには和昌から、妻の燕にはN氏から話をした結果、二人とも納得しました」
3ヶ月後、Tさんは妊娠し、翌年、自宅で佐伯玲を出産したが、生まれたのが女の子だったこともあり、Tさんの処遇を巡って、再度和昌とN氏は対立した。
「N氏は、女の子は養子にして、Tさんには暇を与えるべきという考えでした。ですが、和昌は、女の子は実子として育て、Tさんには引き続き佐伯家で働いてもらうと主張しました。話し合いの結果、和昌の案で進められることとなり、広尾の助産師に出生届を書いてもらいました」
それでも、諦めきれなかった和昌と燕は、夫婦で不妊診療に取り組み、四年後妊娠した。けれども、その結果はまたしても女の子で、和昌の落胆は大きかった。
「彼女の誕生を一番喜んだのは、N氏でしたね。玲の誕生後、佐伯家とN家は絶縁状態でしたが、“本当”の孫見たさに、N氏は度々顔を出すようになりました。ですが、その贔屓ぶりには目に余るものがあり、バランスを取るかのように、佐伯家の人間は玲に対し、過度に気を遣った態度で接していました」
この後、西村氏は冒頭のセリフを口にした。
記者は、西村氏に佐伯玲がこの事実を知っていたかどうか訊ねたが、その答えは「わからない」だった。
周囲の態度から、佐伯玲は何かを感じ取っていたのだろうか。
その後、彼女はモデル・舞踊家として、世界的に評価されていたにも関わらず、和昌氏の転落事故の後、すぐに政治家となった。
その背景に、佐伯家の人間になろうとした彼女の葛藤と、実の母親を守ろうとする親子の絆があったとするなら、彼女の行動に一本の筋が通ると言えるのではないだろうか。
記事を読み終えた由美は、グラスに入ったオレンジジュースを飲む。
由美の頭に、様々な思いが浮かんでいた。
第一は、元秘書の西村に対するものだった。
長らく和昌の秘書であった西村は、佐伯家との関係も深く、由美もよく知っている。
人柄は寡黙で温和。「政界の渡世人」と呼ばれた和昌が、党で孤立しなかったのは、西村の存在に依る所が大きかった。
由美もまた西村には深い信頼を寄せており、就職活動の際に記者志望であることを、唯一相談した相手でもあった。
その西村が、取材を受けただけでなく、佐伯家最大の秘密を話したということ、これが由美には衝撃だった。
どういった経緯があったのか。
最初に思い浮かんだシナリオは、民貴党による懐柔だった。
和昌が常々口にしていたのは「俺が引退したら、お前が後を継げ」という言葉だった。だが、その言葉は玲の出馬と共に霧散した。
一方、和昌の政界引退後、西村は政治コンサルタントの会社を興し、経営も順調。前に会った時も、「自分は表に立つタイプではなかった」と笑いながら話していたくらいだから、そこにわだかまりはない。
そうなると、この記事は、民貴党が和昌の出馬を妨害するため、わざわざ西村を担ぎ出したということになる。
党との間にかなり大きな貸し借りがあった。そうでないと、政治コンサルタント会社を経営する西村が口を開くはずがない。
だが、由美に考えられるのはそこまでだった。そして、ここまで考えることができるのも由美だからであり、母が「西村に取材できるとすれば由美しかいない」と考えたのは、自然なことで、その結果、今朝の電話に至ったというなら納得がいく。
次に由美が考えたのは、富沢についてだ。
たしかにスクープであり、売れる記事だ。そして、この記事を掲載するには、由美だけでなく編集部にもバレないよう、ギリギリまで隠す必要があったこともわかる。
今日付の由美の人事異動に合わせて、佐伯家のスクープを載せることで「『週刊プレス』は公平中立な報道機関である」ということを強烈にアピールできる。
最後に考えたのは、佐伯家についてだ。
和昌はどんな言葉で田村さんを説得したのか。どうして母はその企てを受け入れたのか。玲は知っていたのか。こんなことまでして守りたかった佐伯家とは――疑問は尽きない。
由美は席を立ち、トイレに入ると、すぐにプライベートの携帯電話で電話をかける。
彼女は出るはずだったし、彼女は出なければならなかった。
――はい、佐伯です
――田村さん、私
――由美様ですか?
――そう
――朝早くからどうされました?
いつもと全く変わらないやりとりに、由美は、記事全部がでっち上げじゃないかと疑いたくなる。
――由美様?
――今すぐ会いたい
――旦那様ですか? それとも奥様?
――いいえ。田村さんに
――私ですか? それは無理です。
――どうして?
――私はこの家の家政婦ですから。旦那様と奥様の許可なくこの家を離れることはできません
――じゃあ、父さんに変わって。私から話をする
――旦那様は昨晩から外出されています
――母さんは?
――『もし由美から電話があっても取り次がないように』と
由美は言葉を止める。
――だったら、佐伯家の娘としてお願いする。この後、今から言う住所に来て
田村さんは、少し考えてから、――かしこまりました、と由美に伝えた。
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