31人が本棚に入れています
本棚に追加
カフェを出た由美は、流しのタクシー拾う。
目的地から少し離れた場所でタクシーを降りると、周囲にマスコミがいないことを確認し、エントランスをくぐる。
待ち合わせ場所に指定したのは柏木のマンションだった。
由美は椅子に鞄を置いて、田村さんの到着を待つ。
推測では、マスコミが今最優先で探しているのは和昌で、和昌が外出しているなら、実家周辺のマスコミは少なくなっているはずだった。
何より、佐伯和昌という大物議員の邸宅で、長年、家を訪れる要人の応対をしてきたのが田村さんだった。
インターホンが鳴る。
やはりと言うべきか。装いこそ違うものの、田村さんが普段と変わらぬ表情でそこにいた。
勧められた椅子に腰を下ろした田村さんは、一言も喋ることなく、正面に座る由美の目を見る。
「どうしてここに来てもらったかはわかりますよね?」
「記事については聞きましたか?」
由美の質問に対し、何も答えない田村さんに、言葉を足す。
「ここでの会話は、週刊誌記者としてではなく、家族としてのもの。だから正直に話してください」
「わかりました」
田村さんは頷く。
「記事については聞きました?」
「はい。今朝、奥様から」
事務的で簡潔、いつも通りの口調だ。
「記事は読んだ?」
「いいえ。ですが、だいたいどんな内容が書かれているかは想像できます」
「本当なの?」
「本当です」
「どうして?」
「旦那様に頼まれたからです」
その答えに、由美は「そういうことじゃなくて」と伝えるが、田村さんは言葉を継ごうとはしない。
「父さんは何て言ったの?」
「『俺はお前と生まれてくる子を一生守る。だから、佐伯家のために産んでくれ』と」
「それだけ?」
「はい。それだけです」
ここでも家。なぜ和昌はそこまで家にこだわるのか。
「田村さんから何か求めたりは? 例えば、養子縁組とか」
「特にありませんでした」
「じゃあ口約束だけ?」
「はい」
信じられない。いつ反故にされるかわからない、そんな条件で子どもを産むことを承諾したのか。
「どうして?」
「私に子どもを産ませることで、佐伯家は大きな秘密を抱えます。そうなると、私を目の届かない場所に置くことはできず、私の人生は、佐伯家の傘の下、ある程度の生活の安泰が保証されるわけです」
「でも、それは和昌が転落しない限りよね?」
「もちろんそうですが、その場合は、私の求める保護ではなくなるわけで、出ていこうがどうしようが勝手なわけです」
寄生――そんな言葉が頭をよぎる。
「田村さんの一生はそれでよかったの?」
「ええ。一人の女性、妻や母といった立場からも遠く離れ、何一つ背負うことのない存在として生きていけますから」
「今回のような状況になっても、その考えに変わりない?」
「私は道具として、自分の子宮を貸しただけです。世間から見れば、私はただの家政婦で、責めるべきは旦那様、と人々はお考えになるのでは?」
たしかにそうだった。
「その結果、長年世話をしてきた家族が苦しむことになっても?」
「はい。私は家族ではありません。あくまで最も近い他人ですから」
どこまでも普段と変わらない口調が、全てを語っていた。
「玲は知っていたの?」
「そこまでは存じ上げておりません」
「死んだことについては?」
「私は彼女を産みました。けれども、すぐに彼女は佐伯家の娘となりました。ですので、彼女の死に対する悲しみは、あくまで家政婦として傍にいた人間が感じるものと同じです」
「どうしてそこまで考えられるの?」
「それは、そもそも私がどのような立場で産むことを承諾したかに尽きると思います。そこを区別して考えることができないなら、決して産まなかったでしょうし、その後も傍にいることはできませんから」
その点で言うと、今日までの佐伯家は、歪な共生関係で成り立っていたのかもしれない。
「そろそろお暇しなければなりません」と言い、田村さんが立ち上がる。
「どうして?」
「奥様の昼食を準備する時間ですから」
「母さん食べるかしら?」
こんな状況で、食欲があるとは思えなかった。
「お召し上がりにならないことと、準備しないことは別の話です」
見送りのため、玄関に向かう。
不思議なことに、由美が抱いていたのは、感謝の気持ちだった。
今となっては、彼女のしたことに対して、周囲がどうこう言える話ではない。だが、由美にとっての田村さんは、これまでずっと変わらず傍にいてくれた人だった。
「そういえば、由美様が仰っていた『お願いしたいこと』とは何ですか?」
田村さんが振り返る。
正直、言われるまで忘れていたが、それでも次の言葉を口にした。
「直接会って話を聞いてきた人間として、二人に伝えて欲しい。『あの記事を書いたのは私じゃない』と」
「かしこまりました」
田村さんはそう言うと、「由美様もくれぐれもお気をつけて」と一礼する。
「田村さんも。父さんと母さんをよろしく」
その後、由美は玲の法的な立場を確かめるため、知り合いの弁護士に電話をかけた。
弁護士によると、虚偽の出生届を提出した場合、玲の立場は非嫡出子となるが、今回について言うと、本人が亡くなり、除籍となっているため、誰かが提訴でもしない限り、特に関係ないとのことだった。
弁護士の話を聞きながら、由美は、玲の残した「自らの肉体を灰にするように」という遺言について考えていた。
玲は知っていたのかもしれない。同時に、自分が誰であってもよかったのではないか。
血縁とか家柄とか、そんなものは関係なく私は私である――そして、彼女は手にしていた。モデルとして舞踊家として政治家として、私が私であるものを。
――そういえば、と弁護士が話題を変える。
――昨年、熟年離婚の取材をされた際に、料理教室に勤める女性がいたことを覚えてますか?
――ええ
――先日、亡くなられました
――そうでしたか
――はい。遺産相続の件で、お子様から相談を受けたのですが、話によると彼女も癌だったそうです
取材時は、あんなに元気そうだったのに。
――いつ亡くなってもいいように、しっかり準備されていたので、こちらはほとんど何もしなくてよかったのですが、彼女自身、離婚する前から癌であるとわかっていたようです。遺言状には、離婚時に財産分与されたお金は、全額旦那様にお戻しすると書いてありました。一円も手をつけていませんでした。子ども達と旦那様への手紙もあり、どちらの手紙にも、離婚に対する謝罪と、母としての役割を全うさせてくれたことに対する感謝の言葉が綴られていたそうです
――あの方らしいですね
――ええ。ですので、報道によると、中川さんも色々大変みたいですが、何かあればいつでもご相談ください
ありがたい言葉だった。
――ありがとうございます。その時はお願いします
由美は電話を切る。
最初のコメントを投稿しよう!