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翌日、9時過ぎに目覚めた由美は、シャワーを浴びてから洗濯物をまわす。
洗濯物を干し終えると、買い物のため外出する。今日は近所のコンビニではなく、少し離れたスーパーまで足を運ぶことにする。
日は高く、日焼け止めを塗らずに出たことを後悔したが、およそ15分の道のりを歩いて行く。
買い物カゴを手に入店する。
スーパーのテーマ曲が流れる店内で目立つのは、老人と未就学児を連れた主婦の姿。店員もほとんどがパートと思われる女性で、店内を駆け回る子どもを母親が注意する。
由美の近くで転んだ子どもが泣き出す。すぐに母親が買い物カゴを床に置いて抱き上げる。女性のシャツに、子どもの鼻水がべっとりとつく。
目の前で繰り広げられる光景に、由美は強い拒否感を覚える。
結局、何も買わずにスーパーを出た由美は、マンションに戻る途中の公園のベンチで休憩する。
滑り台で遊ぶ子どもの傍で談笑する二人の母親が、何度もこちらを見る。
一瞬「気づかれたか」と思ったが、すぐにその視線が不審者を見るものであることに気づく。
Tシャツにジーンズ姿で財布だけを手にした若い女性が、真っ昼間から一人公園のベンチに座っている。
しかも、今の自分は無職だ。
唐突に富沢の言葉が思い出される。
「世の中そんなに暇じゃない」
由美は急いで公園を後にする。
いたたまれなかった。
結局、マンション近くのコンビニで簡単な食事を買うだけにする。
買い物を済ませた由美が外に出る。
「中川佳織さんですよね」
背後から呼ばれる。
女性レポーターが隣に来ると同時に、正面にはカメラマンが張り付き、由美にレンズを向けている。
「怪我の具合はどうですか?」
レポーターの言葉に、傷口とは違う場所が痛む。
由美は無視して進む。
「犯人に対して言葉はありますか?」
おだやかな口調も、獲物を前にしたイノシシの吐息のようだ。
由美は無言でマンションへと歩き続ける。
何もできない。撮られた時点で負けだった。
質問に答えても、答えなくとも、結果は晒し者。
レポーターにカメラマン、撮影された映像を見るテレビ局のスタッフ、スタジオのアナウンサー、コメンテーター、視聴者も、絶対に傷つかない場所から、転落した由美の姿を確かめる。これはそのためだけに撮影されている。
「何か一言お願いします」
レポーターの乾いた声。
由美は彼女に掴みかかり、殴り倒したい衝動に駆られた。けれども、下を向きマンションに逃げ込むしかない。それが、一番傷が浅く済む方法だった。
「『女子記者』だったら何か話す必要があるんじゃないですか?」
最後に聞こえたレポーターの言葉も無視して、マンションのエントランスに入ると、階段で部屋まで上がる。
ドアを閉め、鍵をかける。息が切れた。
サンドイッチを食べた由美は、携帯電話の電源を入れる。
すぐに夥しい数の着信履歴とメールが届く。
由美はそのまま電源を落とすと、携帯電話をテーブルの上に置く。
「一人にしてほしい」
そう思う時ほど、メディアは放っておかない。
かつての由美がそうしてきたように。
「犯人に対して言葉はあるか?」と、レポーターは訊いた。
答えは「ない」だ。
記事を書いたことを悪いとは思っていない。それは記者としての自負だ。
刺されたこと。記者という仕事をしている限り、誰かから恨まれても仕方がない。それくらいの覚悟を持って、由美は仕事をしてきた。
もちろん覚悟と、本当に刺されたという事実の間にはショックがある。けれども、まだこの気持ちをうまく整理できずにいる。
ただ、こういった思いを、メディアに伝えるかどうかは別の話だ。
伝えたところで、報道される時には、人々がわかりやすいものに変えられてしまう。一方で、伝えないことによる推測や誤解の恐ろしさも知っている。だが、言葉を発した後のどうしようもない後悔よりは、そちらの方がましだった。
次に、由美が考えたのは、自身の妊娠についてだった。
今が8週目。お腹の膨らみもなければ、つわりと思われる症状もなく、未だ実感を持てずにいる。
先程スーパーで見た母親の様子が思い出される。
「自分にあのような行動ができるのか」
子どもを育てるにはゆとりが要る。金銭面、精神面の両方で。
今の自分にはどちらもない。
何より、子どもは嫌いだ。
身体は弱く、すぐ泣く。落ち着きがない、わがまま。
私のような人間でも、母親になれば変わるのか。いや、そんな自分になりたいか。
命は尊い。そう思えるのも、思う側にそれだけのゆとりがあってこそだ。
高木瑠香の話ではないが、自分にもまた母性と呼ばれるものがないのだと由美は思う。
一方で、意識が戻った時、真っ先に気にしたのは胎児のことだった。
どうしてあのような行動をとったのか。単に自身の健康状態を伝えただけか。それとも、無意識でも胎児を助けたいと考えたのか。
わからない。
今の自分は無職で、次の仕事の当てもない。
パートナーは産むことを望んでいないし、柏木とは別れることになるだろう。
仕事に就けば可能かもしれないが、身重の厄介者を誰が雇ってくれるのか。
考えるほど、自分がソファに埋もれていく気がする。
由美は膝を抱えたまま、ソファに転がる。
ガラステーブルに置かれたテレビのリモコンを裏返すと、そのままテーブルの表面を指で撫でる。
窓からの光に照らされて、指の跡がつく。
身体を起こした由美は、キッチンに向かう。流しの蛇口を勢いよく捻り、水が撥ねるのも気にせず手を洗う。
シンクを叩く水の音が心地よかった。
その音には、流している感じがするのだ。汚れも埃も、全てが排水口に消えていく。
巨大な排水口があればいいのに、と思う。何もかも暗闇に流してくれる排水口が。
手を離す。シンクを撥ねた水が辺りを濡らしていく。
駄目だ、こんな水じゃ。由美は蛇口を締める。
水。ケトルに注いで沸かせば、コーヒーになり、紅茶になり、カップラーメンのスープになる。体内に摂取されると、汗になり涙になり、尿になる。
水の死はトイレであり排水口だ。人々の目から消えてなくなることが死だ。
由美は寝室のベッドで横になる。
身体を丸め、伸ばした右手の指を動かす。親指、人差し指、中指、薬指、小指。一つずつ順々に動かしてから、うねうねと全ての指を動かす。
今はまだ思い通りに動く。機能している。でも、掴むものは何もない。
動かすのをやめる。
丸まった手。死んだ手。手の亡骸。
目を瞑る。暗闇が訪れる。暗闇は一日の死であり、排水口だ。
眠れ眠れ。眠れば今日も過去になる。二度と戻らない過去へ。
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