第2部 13 降伏

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 目を覚ます。既に部屋は暗くなっていた。雨の音が聞こえる。  ここ二日、不思議なほど眠っていた。  これがつわりのせいなのか、必要な休息なのかわからない。  それから食事。空腹を感じても食べようという意欲が湧いてこない。  活動とは対極の暮らし。  由美は許されるなら、いつまでも眠っていたかった。眠るほど、現実の意味は稀薄になり、重さは限りなく軽くなっていく。 「誰かのため」から離れていく。迷惑を考えなくていい。外に出ない限り、全てが許される。  横になりながら(もてあそ)んだ思念を、深呼吸とともに吹き消す。  由美は足だけをベッドから下ろす。足の裏が床に触れた所で、上半身を起こし、ベッドから立ち上がる。  何気ない動作の一つに、神経と筋肉の存在を感じる。  閉め切った室内に自らの心音が響くような感覚。  ゆっくりと歩く。片足立ちになる一瞬に、重心が(かかと)(けん)(こむら)(もも)へと神経の綱を渡る。  由美は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、飲み干す。冷たい水が喉と食道を伝い(ほぞ)へと落ちていく。  空になったペットボトルをシンクに置く。振動が音になり鼓膜を震わす。  由美は真っ暗な室内を見まわす。  しんとしている。  ソファに座り、真っ暗な天井を眺めながら、両手でソファの表面を撫でる。  右手が携帯電話に触れる。  由美は指先で軽く叩くと、電源を入れる。  ロゴマークの後、起動画面が表示される。  パスコードを入れる。  ホーム画面が開く。同時に、大量のメールと、着信を知らせるショートメッセージが届く。  メールを開く。全てが広告か取材依頼だ。  ショートメッセージを見ていく。同様の内容――これが現実だった。  由美はインターネットにアクセスする。 “ダイエット”“結婚相談”“ニュース”“株価”“分譲マンション”“カードローン”“転職情報”  目に入る情報全てが自分には縁遠いものに思える一方で、追い立てられるように感じるのはどうしてか。  結局、それ以上見ることができなかった。  由美は携帯電話の電源を切ると、ベッドに戻り、横になる。  動悸がする。まるで突然目の前に現れたケバケバしい現実に反応したかのようだった。  そんな状態になっている自分がおかしくて、声を出して笑う。空腹でへこんだお腹がひくつき、目から涙が零れそうになる。  かと思えば、悪寒に襲われる。寒くもないのに鳥肌が立ち、全身が震える。  由美は身体を丸める。震えが止まらない。  肉体が意思から遊離していき、コントロールできなくなっていた。  再度、声を出して笑う。もはや何がおかしいのかもわからない。  感情とは無関係に身体が生きていた。  笑い疲れ、虚しさに包まれる。がらんどう、私はがらんどう。  どうしてこうなったのか。  最初に浮かんだのは、家族の顔だった。  玲、和昌、燕。  彼らのせいか。違う。だが、同時に「そうだ」とも思う。  思考が鈍い。脳がタールにでもなったようだ。  ぐるぐると回った思考が、錐揉(きりも)みする。  今昔(こんじゃく)が混ざり合い、スーパーボールのように跳ね回ったかと思えば、音もなく炸裂する。  それから妙に冷静となる。  結局、自分が悪いのだ。  分をわきまえず、不相応な生き方をしたからだ。  自分は、佐伯家という(かせ)を引きちぎって生きていける人間ではなかった。おとなしく佐伯家の傘の下で結婚し、子を産み、育て、死ぬべきだった。  ただ、それすらも自分は捨てた。  自分も玲のように生きられると過信し、高く掲げようとした所で手を滑らせ、器は粉々に砕けた。  それだけだ。何も不思議なことはない。所詮、その程度の人間ということ。  玲とも柏木とも、富沢とも、円谷穂純とも違う。自分には彼女達が持っている、才能と呼べるものはない。  そのことにもっと早く気づいていれば、今のような状況にならなかったのか。自分に才能がないことを、分相応に生きることをどの時点で認めればよかったのか。書籍を出す前か。記者になる前か。大学に入る前か。舞踊の発表会で失敗した時か。屋根から飛べなかった時か。  わからないし、意味もない。反省や後悔は逃避に過ぎず、今という現実は変わらない。  全ては自分が愚か者だったことにある。  由美はそう結論づけると、目を瞑り自らの姿態を闇に晒す。これがそんなオンナの末路だということを示そうとするかのごとく。  ベッドの上で干涸らびていく(かえる)。  何をする力も意欲もなく、ただ心臓が止まらずにいるだけの存在。  その時、由美は微かな揺れを感じる。  地震だ。徐々に揺れが大きくなったかと思えば、部屋全体が激しく揺れる。  由美はそのままでいた。  揺れが収まった所で目を開ける。  何もしようとも思わなかった。震源がどこで、震度はいくつ、そんなことはどうでもよかった。部屋の外で誰かが怪我をしたとして、自分に何の関係があるのか。  それが由美の心境だった。他人や社会について考えることができるのも、あくまで自分を通じてでしかない。  自分に甘い。だから、愚かなのだ。  努力だけで評価されるのは、子どもの世界。世間の評価は、結果と信用。  いつか私にもできる――そんな甘い考えを信じていた自分に反吐が出る。  その反吐が自分自身に降りかかることで、ようやく愚かさに気づく。  でも、今の自分は安堵している。どうしてだろう。  自分が愚かであると認める人間に対し、周囲は優越感を隠して優しくする。  だが今は一人だ。この部屋にいる限り、他人の優越感に触れずに済む。  愚かなままでいい。それが安堵の正体だった。  由美は目を瞑る。私はどうなりたかったのか。  私は……玲に勝ちたかった。残酷な差を目の当たりにしても。  嫉妬していた。だから、挑み続けるしかなかった。  佐伯和昌の娘から始まり、佐伯玲の妹が加わり、周囲からはいつも色眼鏡で見られる。  周りができることはできて当然、できないことは恥ずかしいこと。  たとえ、由美自身の努力で何かを成し遂げても、それは恵まれた環境のおかげとされる。  必死だった。一方で、その様子を他人に見せたくなかった。  結果が全て。結果の伴わない努力は、無駄なあがきと笑われる。  社会は弱者を求めない。強者を求める。強者とは勝者であり、弱さを他人に見せない人間だ。  そんなことはわかっていたつもりだった。  なのに。なのに? まだそんな風に考えるのか?  自分を格好良く考えすぎだ。  死に物狂いにやっても、醜態を晒すだけ。それがあなたの限界。  そのことを認めるのが怖くて、自分は努力していると悦に浸っていただけでしょう?  違う。  違わないでしょ。ほら何を言っているの? 嘘つき。  嘘じゃない。  まだ負け犬の遠吠えを繰り返すの?  由美は膝を抱え、両手で耳を塞ぐ。  それでも、精神の声は止まない。  ほら、まるで嘘をごまかす子どもみたいじゃない。  自分に(とが)められ、(なじ)られ、由美はわからなくなる。どちらが自分の声なのか、自分の本心なのか。  何も考えることができなくなり、自分が出口のない(うろ)にでもなったように感じる。それは、そのままぐしゃぐしゃに潰され、ゴミ箱に捨てられる。  目を開ける。  たしかに変わらず、ベッドの上に横になっている。ただ、自分がそこにいる、目覚めているという感覚が稀薄だ。  四肢が失われ、巨大な(うじ)になったようだった。けれども、それを至極当然のこととして受け入れている自分がいる。  今ならわかる。如何に自分が無力で、孤立した存在か。  途端に猛烈な吐き気に襲われる。フードプロセッサーにかけられた内臓が出口を求め、こみ上げてくるように。  由美は自分が狂っていくのがわかった。  恐れている? 恐れていない?――わからない。  狂気を? 孤立を? 無力を?――わからない。  堪えきれず目を瞑る。  由美の知る様々な人物の顔や、過去の自分の姿が浮かんでは消えていく。  (おぼろ)な思考が瞬間瞬間に(けぶ)り、脳裏に複数の考えが浮かんでは弾ける。神経が頭の中で火花を上げている。何度も胸に手を当て、心拍を確認しても、わかるのは高速に脈打っているということだけ。  身体は震え、深呼吸しても吐き気は治まらない。耐えきれず、由美は壁にもたれかかりながら、トイレに向かい、便座の前で膝をつく。けれども、何も出てこない。  諦めた由美は立ち上がる。発酵した内臓の臭気で中毒でも起こしたかのように全身がだるい。  リビングの姿見に映る人物に気づく。これは私か?――実感がない。  身体に触れてみる。指があり、腕があり、乳房があり、腹がある。  たしかに私だ。私はここにいる。なのに、こちらにはいない。  Tシャツを脱いで、もう一度触れる。指、首、腕、腹……何も変わらない。ハーフパンツを脱ぎ、下着も脱ぐ。腿、股、尻……仄かに熱を感じる。  発火した神経が線香花火のように燃え尽きていく。立っていることができず、その場で横になる。  断片的なイメージが浮かんでは消えていく。マスターベーションする母、ステージで首だけの姿で演奏する柏木、血まみれでアスファルトに倒れる富沢、田村さんを抱く和昌、乳房も女性器も顔になった全裸の高木瑠香、自分でも見たことない自分の笑顔、水に浮かぶ男児の死体、泥に刺さった老女の下半身……  立て続けに現れるイメージ。火のついたネズミ花火となった意識が空間を飛び回る。  由美は自分が闇に、真っ暗になっていく気がした。  助けて――そう思った瞬間、誰もいなくなる。  誰か――声も出ない。  暗闇に穴が空く。  その穴はどんどん大きくなりながら、由美の視界を覆っていく。  由美はゆっくりと目を閉じた……はずだったが、穴から飛び出してきた白い鳩に驚き、すぐに目を開ける。  狭い路地にいた。見覚えのない場所だった。  羽音が聞こえ振り返る。鳩が飛んでいく。  走って追いかける。街灯もない路地を、鳩は飛び続けている。足元には古新聞、古雑誌、ラベルの褪せたミネラルウォーターのペットボトルが転がっている。  身体が重い。息が上がってきた。足元を見る。履いていたパンプスを脱ぎ捨てる。  鳩との距離が少しずつ開いていく。由美は目を凝らしながら必死に追いかける。 「待って」荒い息と共に小さく声に出す。  姿が見えなくなる。それでも、しばらくの間、鳩の消えた方向に走り続ける。  遠くで白く動くものがあった。  由美は足を止め、目を細める。  玲だった。  スポットライトに照らされ、白い衣装を着た玲が舞っている。  しなやかに動く長い手足。跳躍。繊細でありながらも力強く、優しさと強さを(そな)えた舞い。  何かが玲の足元で(うごめ)いている。足元だけじゃない。周囲の闇もうねっている。  由美は目を凝らす。手だ。黒い無数の手。  玲はその存在に気づいている。それでも、踊りを止めない。  一本の手が掴みかかるのを、玲は難なくかわす。  それを合図にあらゆる方向から腕が伸びる。  玲は涼しい顔で舞い続けるが、遂にその中の一つに腕を掴まれる。  その瞬間、玲はこれまでにない激しい動きでその手を引きちぎり、すぐに踊りを再開する。  重油のような真っ黒の粘液が降りかかって地面に叩きつけられても、すぐに立ち上がる。  玲はなぜ踊っているのか? 踊り続けているのか?  由美にはわからない。だが、踊り続けなければならないのだ、玲は。  そのうちに、肌は切れ、皮膚がむけ、黒ずんでいく。  それでも、玲は止めない。両手を挙げたかと思うと、自らの胸に引き寄せ、跳躍する。  着地の瞬間、右足を掴まれた玲は転倒しそうになる。だが、瞬時に空中で体勢を立て直すと、右足を振り上げ、その手を引きちぎり、獣のような叫び声をあげる。  一瞬、怯んだ手が闇に引っ込む。だが、再び玲を掴まえようと無数の手が伸びてくる。  玲を追い続けるスポットライトが、汗を光らせ、舞い上がる埃を白く照らす。  どこまで傷ついても玲は怯えを見せない。  由美は思わず「玲!」と叫んだ。だが、玲は振り返らない。  もう一度呼ぶ。気づいている様子すらない。  助けたかった。傷だらけの身体にボロボロの服。息も上がり、最初と比べ、明らかに動きが重い。  由美は一歩踏み出して「お姉ちゃん」と呼ぶ。自然とその言葉が口から出た。  踊りを止めた玲が振り返る。  由美は駆け寄り、抱きしめる。  途端に、玲の身体から力が抜けていく。由美は支えようと両腕に力を込める。  濡れていた。由美は身体を支えながら手を見る。  血に塗れていた。もう一度玲の腰に手をまわす。何かに触れ、それは玲を深々と貫いている。  由美は何とかして抜こうとするが、抜けない。  膝をついた玲がこちらを見つめる。優しい眼差し。 「違うの」「違う」由美は泣きながら弁解する。  玲の身体が地面にできた影に沈んでいく。由美は必死に抱き起こそうとするが、触れた場所からは次々と血が流れ出す。  玲の沈没は止まらない。由美は引きずられるように膝をつき、両腕に力を込めるも、灰になった身体が足下の影に落ちていく。  両手で玲の顔を支える。美しい顔も灰となり消える。  残ったのは、足下にできた沼のような影だった。由美は消えた玲を探すように何度もその影を(すく)おうとする。  背後からの視線を感じ、振り返る。  和昌と燕がこちらを見ている。和昌は怒りに満ちた顔で。燕は悲しそうな憐れみの表情を浮かべて。  由美は立ち上がり向き直る。血で服が汚れている。 「私じゃない」  声をあげるも、二人は背を向けて去って行く。  耳元でひそひそと声が聞こえた。笑い声が交ざりながら、その声は徐々に大きくなっていく。  由美は耳を塞いでうずくまる。止まない嘲笑。 「黙れ!」 「見世物は終わった!」  駆け出す。逃れたかった。けれども、どこまでもスポットライトが追いかけてくる。  足をかけられ転倒する。その瞬間、照明が消え、誰かがのしかかる。  由美は必死に抵抗するが、悲鳴をあげようとしたところで、口を塞がれる。  相手の体重が掛かる。同時に、胸に衝撃を感じ呼吸が止まる。  刃物が引き抜かれ、もう一度刺される。更に引き抜かれ、振り下ろされた衝撃で目が覚める。  フローリングの床、横たわる右手。  いまだ思考はぐちゃぐちゃで、体内で様々な声が響いていた。それなのに、意識だけは妙に冴え冴えとしている。  ゆっくりと立ち上がり、振り返る。姿見。そこに映る自らの影を認める。  シルエットからもわかる醜い身体。  短い足。太い(もも)。腹回りの肉。右手の指先で脇腹の傷をなぞる。肉体の呪詛(じゅそ)が漏れ聞こえてくる。  由美は傍に置かれた鞄から護身用のナイフを取り出すと、ゆっくりと柄を開き、刃を出す。  鏡の前に戻り、頬に当てる。冷たい。  そのままナイフを下腹部に下ろす。鏡を見ながら、ゆっくりと刃先を膣に向けると、大きく息を吸い、ナイフをゆっくりと引き上げる。  膣を裂き、(へそ)まで切れ目を入れる。噴き出した血が、足を伝い、床に垂れる。裂かれた腹から羊水と共に3センチ程度の胎児が流れ出る。開かれた子宮が鏡に映る。赤い闇。開け放たれた生命のドームが呼吸に合わせて動く。  そんな想像をしてから、由美はゆっくりと右足を踏み出す。  肉の声が(こだま)していた。その谺に身を委ね、静かに手足を震わせる。  肉は泣いていた。自らの醜さに。  肉は語っていた。私は高く飛ぶことはできない。だが、そのまま下に呑みこまれたくないと。  這ってでも進みたい。一ミリでも先に。  由美は応えるように、もう一歩踏み出す。  それしかできないのだ、私には。  私は重力に降伏した。だが、自らの重さをわからせてくれた重力を愛している。  だから、歯を食いしばり、爪を立て、何度でも立ち上がろうとする。  たとえそれが重力にしがみつくことでしかないとしても。  その時、まだ見ぬ胎児の姿が由美の脳裏をかすめた。  形も定かでない小さな手で、由美の胎盤にしがみついている。  涙と叫びが溢れる。その叫びは、意味のない、自然な叫びだった。  由美は静かに踊り続ける。  それしかできなかった。  立ち止まった由美は、自らの身体に腕を回し、抱きしめる。  私がいる。最新の佐伯由美がここにいる。  由美は寝室に向かう。チェストに置かれた箱を手に取ると、ルージュを取り出し、慣れた手つきで左から右へ上唇、下唇に塗る。  色も様子も見えない。それでも、今の私がどんな表情をしているかわかる。  私は全ての私になれる。それが、私は私にしかなれないということであっても。  由美はカーテンを開ける。  ベランダで雨宿りをしていた鳩が、雨空の中を飛んでいく。由美は外を見ながら、何も掴んでいないその手に力を込めると、室内に向き直る。  食事を摂らないといけない。そのためには買い物に行かないと。買い物に行く前にはシャワーを浴びて。それから、産婦人科で検診も受けたいし、母子手帳ももらいたい。救急車を呼んでくれた女性にお礼を言いに行かなければならないし、川端幸子にも連絡しなければ。  由美は浴室に向かう。ひんやりとしたタイルに足裏が触れる。  蛇口を捻る。シャワー口から流れた水が、タイルを伝い由美をくすぐる。  お湯の温度を確かめ、頭から被る。  全てが洗い流されていく。だが、由美という存在はそこにいた。
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