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雨の中、短い時の
高校2年、夏、帰り。
外は急な雨。傘はない。弱まるまで待っていようと思った。でも、うしろから、竹澤くんとその彼女が、仲良く手をつなぎながら歩いてきた。
竹澤くんは、私の初恋の人だった。
サッカー部で、イケメンで、当然のように、学年でいちばん美人の子と付き合い始めた。私は遠くから見ていることしかできず、おそらく存在すら知られていなかっただろう。同じ学校の同じ女子で、なぜこんなにも違うのだろう?なぜ私にはそういうときめくような特別なことが起きないんだろう?そう考えて辛くなっていた。
あの二人の近くにいるのが嫌で、土砂降りに近くなった雨の中に飛び出した。
しばらく全力で走ってみたけれど、すぐに息は切れるし、服もバッグも濡れまくり。中身がだめになったら困ると思って、近くのマンションの玄関の下で雨宿りすることにした。
そこには、先に来ている子がいた。同じクラスの円地さんだ。服の濡れ方から見て、彼女も傘を持たずにここまで歩いたのだろうと思った。黒縁メガネ、肩で結んだ髪。地味な子だった。
私と目が合うと、円地さんは軽く会釈した。わたしもつられて軽く頭を下げた。同じクラスと言っても、グループが違って、話したことは一度もなかった。
降り続く雨の音に囲まれて、同じ空間。
なんとなく気まずい空気になっていた。
しばらく経っても雨は弱まらず、私が『濡れてもいいから走って帰ろうかな』と思い始めた時、
「雨の音、好き?」
ものすごく弱々しい声がした。前に図書室の本か何かで『蚊の鳴くような声』っていう表現があったけど、たぶんあれはそんな感じの声だった。円地さんを見ると、顔は下を向いていた。
「音かあ……あんま意識したことない」
私は正直に答えた。
「私は、普通の雨の音は好き。静けさが増すような気がして」
「音すんのに静けさなの?」
「普通の雨は、ね。今日みたいな強すぎるのは嫌い」
「そうなんだ」
「最近は異常気象で豪雨が多すぎて、文学的な雨の音が少なくなったと思わない?」
「ごめん、文学的な雨が何かわからない」
「……私こそごめん、オタクだから」
円地さんがオタクだということは知ってる。彼女が所属するグループの子たちはみんな『漫画研究会』のメンバーだと、クラスではみんなが知ってる。
それからまた気まずい沈黙があった。雨は全然弱まらなかった。逆に強くなって、私が歩き出すのを拒んでいるみたいだった。
「パルミン、好き?」
「え?」
「それ」
円地さんが、私のバッグについているキーホルダーを指さした。それは、アニマルアイランドというゲームに出てくるアルパカのキャラだ。
「これ、お姉ちゃんがゲーセンで取って来たんだよね〜。ゲームもお姉ちゃんのなんだ。私は買ってもらえないんだよね」
「そう」
円地さんが、かすかに笑った。
「私もパルミン、好き、島にいる」
その一言がきっかけで、私たちはゲームの話で盛り上がった。内容は『島に花畑を作ったのに、別なアニマルに家を作られて潰れた』とか『部屋を一つカフェみたいにして、ケーキ飾ってる』とか、ゲームの中の、要するに架空の話だった。でも私は、誰かと楽しく話せたのは久しぶり、いや、高校では初めてだったんじゃないかと思った。一応友達がいて、おしゃべりグループには入れていたけれど、そこの会話はコスメとかファッションとか、本当かどうかもわからない恋愛の話ばかりで、私は時々ついていけないことがあった。本音や、個人的な好みを話せるような友達はいなかった。
「私、動画が苦手で、YouTubeも見ないの」
円地さんが、なんとなくすまなさそうに言った。
「あ~わかる、私も好きじゃない」
「えっ?」
「友達が見てるから話合わせてるけど、ホントは下品なネタとか見たくないんだよね」
「そうなの?でも、そっちのグループって、いつも動画の話で盛り上がってない?」
「私、実は、猫の動画しか見ない」
「私も〜!!」
円地さんが彼女らしくない叫び声をあげた。いや、もしかしたら、友達の前では明るくなるタイプなのかもしれない。
「ネットって、自己主張を強くしないといいねが取れないイメージがあって、つらい」
円地さんが言った。彼女はきっと自己主張が下手なのだろう。雰囲気でわかる。
「目立たなきゃいけないもんね。でもさあ、けっこうみんな嘘を書き込んでるよ」
私の知ってる子の一人は、自分で塗ったネイルを『高級ネイルサロンに行っちゃった!』という題名で投稿していた。見る人が見ればバレると思うけど、そこそこ上手いのでみんな騙されていた。
「私、もう少しゆっくりした世界で暮らしたいなあ」
円地さんの声は、実感に溢れていた。
「いいねとか、他人の目を気にしないで、自己主張もしないで、静かに生きられる場所があればいいのに。好きな作品だけ作ったり見たりして」
「でも、難しいよね。ビジネスにもツイッター使うし」
ビジネスをしているわけでもないのに、私はやんとなく思ったことをしゃべっていた。
「ある程度人気者にならないと稼げないとか、生活できないって言われちゃったらさあ」
「辛いよねえ」
「辛いねえ」
「私たちが大人になったら、何か変わるかな?」
「大学出てもあと四、五年じゃ、変わらないと思う」
「そっかあ……」
こういう話を誰かとしたのは、本当に初めてだった。
「私、中間さんと話せて、本当に楽しかった」
雨がやんできた頃、円地さんはそう言ってにっこり笑うと、濡れた道を早足で歩いていった。私もやっと家に帰れると思ったけれど、なんとなく物足りない気がした。もっと話をしていたかったのだと思う。
それがきっかけで、円地さんと仲良くなった……なんて、都合のいいことにはならなかった。次の日からはいつも通り、同じグループの子とだけ話をして、他の子とは『軽く無視し合ってる』ように接点なし。
それでも、たまに、円地さんがこちらを見ているような視線を感じることがあった。たぶん、向こうも私の視線を感じ取ったのだと思う。でも、結局いつまでも話せないまま、三年生になり、クラスも代わり、進路や個人的な問題にとりまかれて、いつしか私は彼女のことを忘れてしまった。
特別なことも起きないまま、惰性で高校生活は過ぎていき、気がついたら大学受験、なんとか合格、そして、あっという間に卒業式になった。
少しは感動するかと思ったけど、担任の先生はこんなことを言った。
「お前らにとってはたった一度の卒業式かもしれないけど、先生は毎年やってるからあまり感動もないんだよなあ」
クラスから『ひでぇ』『言い方!言い方!』と文句が飛ぶ中、私はどんよりとした曇りの気持ちでいた。先生の言うとおり、私たちの人生はどこにでもありふれているようなものにすぎなかった。テレビやネットでは、同年代が、いや、下手したら小学生や中学生がスポーツやネットビジネスで活躍しているのに、私の高校生活は冴えないまま終わった。
私にはきっと何の才能もないに違いない。
特別なことはきっと、この先も起きない。大学には受かっていたけれど、そこには希望とか明るい要素はなかった。大人になるのを避けるために子供時代を引き伸ばしただけだった。
式の後、クラスの子たちと、また会おうね!とか、絶対連絡取り合おうね!なんて、その場の雰囲気で言い合った(だけど、その誰からも、実際に連絡が来ることはなかった)。
式の盛り上がりのなさと、将来を悲観した悲しさで、私が校門を一人出て、とっとと帰ろうとした時、
「中間さん」
誰かが私を呼びながら走り寄ってきた。
円地さんだった。
「これ、あげる」
彼女は紙袋を私に押し付けるように渡すと、
「卒業おめでとう!」
と、まるで自分は卒業していないかのような言葉を発して、ものすごい勢いで走り去ってしまった。
なんだろ、今の……と思いながら、渡された紙袋を開けると、そこには、パルミンのぬいぐるみが入っていた。ゲーセンのぺらぺらしたやつじゃなくて、ちゃんとしたグッズストアで売っている大きな、フワフワした毛のやつだ。
円地さん。
あの時のこと、覚えてたんだ!
私は突然、あの雨の日を思い出した。傘がないうえに見たくない二人に追われて雨の中に駆け出したあの日。初めて誰かと趣味の話をしたあの日。
私はパルミンを抱きしめた。急に声を上げて泣きたくなってきた。
特別なことは、私にもあった!
それは、雨の中で、ほんの少しの時間だけ会話をした、それだけのことだけど、でも、あの日に円地さんと同じ場所で雨宿りしたのは、大げさに言えば、運命的な偶然だったのだ。向こうもきっと同じように感じて、わざわざこのぬいぐるみを用意してくれた。何かが、通じあって、つながっていたのだ。あの短い間に、雨の中で。
私はそれ以来、特別を求めるのをやめた。代わりに、雨の音に耳をすますことを覚えた。雨粒が屋根に優しく当たる音。静けさの音。円地さんが言っていた『文学的な雨』の意味が、社会人になるころに、私にもわかってきた。人の意識を外ではなく内面に向けさせ、遠くの手に入らないものではなく、近くにあるものを愛おしく思わせる、そんな音。
あれ以来、円地さんに会うことはなかった。
でも、パルミンのぬいぐるみは今も私の部屋にあり、ささやかな何かの大切さを私に教えてくれている。
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