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誰かの囁き声のような、小さな音だ。そんなに小さなものなのだから、きっとHくんのすぐ側でしたはずだ。
でもおかしい。この部屋には自分しかいないのに。耳元で囁く相手などいない。
ぼんやりとした頭で耳をすませていると、やはり微かに声が聞こえる。声は畳につけた右耳からした。どうやら階下の音らしい。
声は女のものだった。
どうにも不明瞭だが、よしよし、よしよし、と言っているように思う。
「よしよし。良い子、良い子」
赤ん坊をあやしているのだろうか。ずいぶんと優しい声音の囁きだった。
「良い子、良い子ね。さあ、ねんねしな」
女の声にHくんも、ついうとうとしてしまう。
再び夢の中へ入りかけて、いや待てよと留まった。
こんなに小さな声が、上の階に漏れて聞こえるだろうか? 階下だから囁き程度に聞こえるのだとしても、この部屋に漏れるくらいの声の大きさで赤ん坊を寝かしつけられるのか?
にわかに覚醒したHくんが咄嗟に起き上がろうとした時だった。
「起きちゃだめ」
床下からのその言葉が自分に向けられたもののような気がして、パッと跳ね起きる。全身に嫌な汗がにじんでいた。
思わず床につけていた右耳を押さえる。まるで、すぐ耳元で囁かれたような近さだった。そして、はたと気付く。自分が泊まったこの部屋は、一階だったことに。
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